「言葉はいらない、ただ・・・」
言葉は、存在するものの死と引き換えに与えられるということを聞いたことがある。
目の前に1つだけしかないあるものも、石と言ってしまえば多くの同じものに紛れ、存在が殺されたものとなる。
目の前にいる大事なかけがえのない存在も、同居人や恋人などと言ってしまえば抽象的な多くに紛れる言葉となり存在が文字上から殺される。
他と同じになんて思えない特別なひとつのものが、抽象化され多くに紛れ、特別さを失う意味で殺される。特別だと思う自分自身の手で殺している。
そんな言葉なんていらない。
誰も殺さない言葉が欲しい。
使い方ひとつ、それで大きく変わるだろう。
特別なものを特別と誰しもに読み取られる言葉を使えるようになりたい。
それが出来るまでは、言葉以外でも特別だと伝えよう。
永遠に言葉以外の伝え方が必要かもしれないな。
「私の日記帳」
日記というものを3日も書き続けられたことがない。
なんなら1日目すらはじめられたことがない。
書き続けられている人は尊敬してしまう。
何を書いているのか、どんな考え方をすれば書き続けようと思えるのか、気になることが山ほど溢れ出る。
自分が日記を書くとしても、特筆すべきこともない日々の何かを書くことになる。
そんなモヤモヤしてしまうことより読書をしたり、絵を描いたりした方が、自分は有意義な時間を過ごせると思ってしまう。こういう考えだから書けないのだろうか。興味があってもマイナス思考が先行している。
裏紙にでも書く習慣を付けてみようか。
考えるだけでなく実践しようかと思う。
いい機会なのかもしれない。
「向かい合わせ」
親しくない仲なら気まずい、親しい仲でもいたたまれない位置が「向かい合わせ」だ。
ここで言う親しくない仲の例は、空いている電車の向かい、食堂の向かい、など偶然出会った人だ。
なぜか目が合う。なぜか逸らしては負けると互いに思うのか、逸らすタイミングを逃す。
相手は自分など見ていないはずだと思っても、人の目がある空間で居ずらいと感じる。
親しい仲でいたたまれない、ということは友達や親にはよく分からない考えらしい。
なにか話をしなければ、無言が怖い、その机に放り出されている手に触れていたい、安心したい、などの思いが強く出る時間が向かい合ったときだ。
自分が何もしていない、という無言の状態が苦手なことも関係しているだろう。
これらは自分の負の感情、思い込みが強いということが原因と考える。分かっているが、そう簡単に自分の考えは変えられない。
だからいつも「向かい合わせ」は避けるのだ。
「やるせない気持ち」
晴らしどころのない悲しみ、それはいくつも思い浮かぶ。
マイナスな感情、思考は溜め込むことが第一だと思っている。
吐き出せ、溜め込むのは良くない、話くらい聞く、とはよく聞く言葉だ。自分なんかのことを見て感情の変化を感じとってくれる優しさと思いやりの心をひしひしと感じる。
だが、そんな事は言われても困る。
誰に言ったところで自分が折り合いをつけるか、諦めて受け入れるか以外で解決した試しがない。
同調されても、否定されても、解決案を出されても、自分は心の奥底から拒絶する。
何が分かると言うんだ、全く同じ立場になることは無いのに何を言えるんだ。
相手の好意を踏みにじっている、そう理解はする。
だが、やるせない気持ちを抱いている自分は、他をどうしても受け入れることが出来ない。そう毎回感じ、さらにマイナスな考えの深みに嵌っていく。
「海へ」
海へ行く、というのが楽しいと思う人々の価値観がどうしても分からない。
ニュースなどで取り上げられる度、なぜあんなにも多くの人が行くのだろうと考えてしまう。
間違って水が鼻や目に入れば痛い。さらにすぐには真水で流せない。
クラゲがとても近くにいたこともある。あれほど後から怖くなったことは無い。
人は多い。なんなら治安も少し悪い。
砂は暑い。
悪感情の理由は2度の体験から、いくつも挙げられる。
いくら海と空のコントラストが綺麗でも拭いきれない。
綺麗なものだけ見る努力をすれば楽しめるのだろうか。