“澄んだ瞳”
君の目は、いつであっても澄んでいて綺麗だ…。もう君を好きではないと自覚したはずなのにまだ、綺麗だと思ってしまった。君には…私には無いくっきりとした二重、目元のほくろ、大きな瞳、その中に映される、君だけのはずだった私。きっと私は、美形な君に愛されてみたかっただけなのだ。恋愛小説のような恋を、君と燃えるほどしてみたかっだけなのだ。けれどこちら側が振り回されていると分かった瞬間、もう面倒だと夢から覚めた。一年という長い間でも、君に恋した時間は無駄ではなかった。その世界のわたしたちは、たしかに輝いていたのだから。
彼の目は…綺麗というか、どこか孤独そうで、世の全てを知っていそうで、しかし、全てを飲み込んでしまうほどの、引き込まれる目をしている。彼を想って3ヶ月…何も知らない彼に惹かれるなんて、御伽噺もいいところ。けれど、今は、彼に夢を見させてほしい。私と彼のその先に光がなかったとしても、いつか照らしてくれる彼を私は追いかけたい
“嵐が来ようとも”きっと彼は職員室に残るのだろう
ここから帰るのも面倒だと、空が晴れるまで待つのだろう。これは天候の話だけれども、彼と私の物語の情景描写として「嵐」が来たらどうだろう?それはきっと、2人の意見がすれ違ってしまって、分かり合えなかった時だ。そんな時も彼は、ここから言い合うのも面倒だと、2人の気分が落ち着くまで待つのだろう。
私はそんな“嵐が来ようとも”、きっと、彼を好きなままなのだろう。
“お祭り”
元々のお祭りは、今のようなきらきらしている行事ではなく、生贄を神様に祀る行事だった。このお話にホラー要素はないので、安心して聞いて欲しい。
年に一度、誰かが祀られてしまう…と思うと恐ろしいだろう。もしも自分だったら…そう思うと怖くて眠れないだろう。それらは、全てを操るのは神様だけなのだからだ。けれど、自分が神様側だったら?少なくとも私は、大嫌いなアイツを連れて来いと、ものすごくわくわくしてしまう。これは、神様の気分は、今の”お祭り”そのものではないか?わいわいしていて、そこには楽しみが待っている。これこそ、”お祭り”だろう。
”お祭り”に並んでいる金魚や食べ物は全て、元は生贄として祀られた人間なのかもしれない。それらは、わたしたちをワクワクさせる為の道具にすぎない。全てを知っているのはそう、神様だけなのだけれど。
“神様が舞い降りてきて、こう言った。”
そもそも神様は、私たちの「欲しい」言葉をくれるのだろうか?それとも、愚かな人間たちに「正しい」答えを授けてくれるのだろうか。
なんと、これと同じような「正義の反対は?」という問いがある。この正解は「また、別の正義」だ。ここで大事なのは、ある物事において、答えはひとつでないということ。要は、神様に欲しい言葉をもらったとしても、確かな正解をもらったとしても、どちらも結果的には正しい答えになるということだ。
わたしはお昼を食べ終わったところなのだけれど、今、ちょうど私の“神様が舞い降りてきて、こう言った。”「昼ごはんの食器は洗わなくて良い」と。神様が授けてくれた答えなのだから、これに逆らうのは良くないだろう?しょうがない、寝かせておくとしよう。今日もまた、私のシンクには食器が重なる
私は、5年ほど前にヘアドネーションをしました。当時、「私の髪が、誰かの生きる糧となって、そしてまたどこかで新しい命と向き合えたなら。”誰かのためになるならば”。」と感慨深い想いを込めたわけではなく「私の髪が再利用されるの?なんだそれは面白い」と思っていました。いざしてみると髪はさっぱりして、父や母には偉いねと褒められ、おまけに、その日の晩御飯は私の大好きなカレーでした。
ここで私がなにを伝えたいかというと、動機はどうであれ、結果としてなにか良いことが出来たならば、それはそれでひとつの正解だということです。例えば、私は「面白い」という動機に基づきヘアドネーションをし、偶然にもそれに連なる幸せを導けました。あなたも、あなたのふとした動機により、たくさんの幸せや、そのときの生きる糧が生まれることもあるのです。まずは、様々な事柄に興味を持つことが、動機を掴むきっかけになる、ということですね。