-ゆずぽんず-

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5/9/2024, 6:18:49 AM

一昨年、昨年、一昨日、昨日と確かな時を過ごした。そして時の流れを犇犇(ひしひし)と感じ、巡りゆく四季と季節が織り成す景色や空気を肌で感じた。そうして限られた人生の一時、一刻、一瞬を有意義に、されど時に無意義無意味に過ごしてきた。

私の人生は、思えばとても大義であったし難儀であった。そう思える反面、同世代と比較してみると実に充実していたとも思える。幼い頃から常にたくさんの人が周囲にいて、いつも誰かの暖かい心遣いの中で過ごしてきた。その中にあって、人を思いやる心よ敬い尊ぶ心を養ってきた。しかしながら、成長し、周囲の人間関係や環境が変わる中でそれらの心を忘れ利己的になることもあった。自己中心的な思考でもって、横柄に振る舞うこともあったし、人に対して醜い現行を行うこともあった。それを友人やクラスメート、教師に注意されては肩を落として深く反省することもあった。
親しくなった友人を病気で亡くしたことも、その後に親しくなった友人がいじめを苦に転校を余儀なくされた時も、私は何の力にも慣れず唇を噛み締めたこともあった。それなのにも関わらず、心のどこかではもっと私に頼って欲しかった、相談して欲しかったと恨めしく思った。

私は中学校の卒業をもって、進学ではなく就職をえらび社会に飛び込んだ。型枠大工の職人であった祖母の手伝いから、私の社会人生活は始まった。職人気質で口が悪く、作業指示も満足でない祖母の元で仕事をするのは息が詰まる思いだった。褒められることも無い、一日を通して会話をすることもほとんどない。元請け会社の方から声をかけられることが唯一の人との会話だった。
十七歳で海上自衛隊に入隊した兄に憧れ、自衛隊を志すようになったことで生活も考え方も大きく変わった。日中は仕事を、家に帰れば兄や妹の高校の教科書を借りて勉強に励んだ。私が願書を出す頃、兄が海上自衛隊を退職して陸上自衛隊に入隊すると言った。兄もまた私を担当してくださっていた広報官へ願書を託した。
私と兄は二人揃って、ふたつの入隊試験を受験した。ひとつは一日で筆記と口述試験、身体検査を受けて結果を待つもの。もうひとつは一次試験(筆記)を受けて合格者のみ二次試験へ進むもの。一つ目はふたりとも合格し、もうひとつは私だけが二次試験へと進んだ。秋の合格発表で、兄と私が自衛官になる道が開かれた。そして翌年の春に私と兄は別々の駐屯地へ着隊したのだ。

時折、双方に連絡を取り「今日は○○の訓練をした」だの、「来週は行軍がある」だのと状況を伝えあっては励ましあった。私と兄ではカリキュラムが大きく異なったが、同じ自衛官として、誇りを持ち、尊敬しあって高めあっていた。
病気を患い、周囲から心無い言葉をかけられても後ろ指を刺されても負けてなるかと踏ん張った。歯を食いしばって踏ん張ったが、病気には勝てなかった。退職の日、駐屯地を後にするときは嗚咽を漏らし、涙を堪えることが出来なかった。電車の中で一人号したのをよく覚えている。退職後は仲の良かった同期や班長、仲間たちと連絡を取りあった。「○○は△△の部隊に異動になった」とか、「明日から山篭りいってくる」などと近況報告を受けては嬉しい気持ちと、底に自分がいない気持ちで複雑な気持ちになっていた。

自衛官の志が絶たれ失意の中ではあったものの、祖母や母が病気で入院するなど心の痛むことが続いたことで前に進まなくてはという自分への焦りや気構えが芽生えていた。求人情報に食らいつき、血眼になって住み込みで働けて手に職をつけられる企業を探した。
何度か声のかかった企業の代表者と連絡を取り合った。「もしも合わないなと思えば辞めて帰ってもいい。気構えず気軽な気持ちで飛び込んできて欲しい」、そんな暖かい言葉に後押しされて地元を離れた。これまでも語ってきたが、結論を言えば反社系の会社だった。移り住んだその日に、頭を丸めさせられ人材派遣へ登録させられた。ここまで聞いていた話と違うことが、間髪入れずに立て続くことなどそうはないだろう。
翌日から人材派遣の仕事で様々なところへ赴いたが、このころにもっとも辛かったのは引越し業者だろう。引越し業者への派遣は大きくわけて三つの職種が存在する。倉庫でのピッキングや整理、事務所移転の応援、引越し作業の応援(家電配送なども含まれる)。私は初日から「EVなし、五階建て四階、三人家族」の現場へと配置された。ありがたいことに、「走らなくていい」、「人数でカバーして辛くならないリレーをしよう」、「休憩を挟もう」とリーダー(社員)からの指示があったことだ。結果を言えば辛いことに変わりは無い、自衛隊とはまた違う力仕事である。
こうして様々な引越し、事務所移転の現場へ行く中で離れしたり、テクニックやコツを習得したことで社員の方々と同じような業務を任せて貰うことが増えたころ、今度はニトリの家具配送組立設置の応変へと派遣先が変わった。ニトリ家具の仕事は、重量物がたまにある位で、ゴミの分別や様々な家具の組み立て方を覚えればとても快適な仕事だった。お客様からの「ありがとう」と社員の方や、派遣先の支店長やセンター長からの「仕事が丁寧で早い」というお褒めの言葉も、誰かの為にと思う私にはとても染みたのだ。その後も、様々な派遣の仕事を経験した。そして、その度にそれぞれの仕事の意義や重要性を肌で感じて学んだ。しんどいことも辛いことも、やりがいも楽しさも同じだけ学んだ。

宮城県仙台市、初めて飛び込んだ会社は反社系で、仕事はもっぱら派遣仕事。震災復興事業で東北が活性化したことで派遣仕事から人夫出しへとかわり、私たちの仕事はもっぱら人夫の多能工へと激変した。そして、本業である建築塗装の仕事が爆増したこと、新規事業への参入などで忙しくなり会社の利益も増えたことで会社は様変わりした。社長は着飾るようになり、毎日のように行われていた制裁(ミスへの制裁、リンチ)も無くなった。酒やタバコ、欲しいものはなんでも買い与えられるようになった。
しかし、どれだけ会社が潤っても賃金が私たちに支払われることはついぞなかった。社長は競馬やパチンコにあけくれ、私たちは毎日、朝早くから夜遅くまで働き詰めになるようになっていた。そしてそれは留まることを知らず、私たちは日中は塗装工事、夜間は遊戯台関連工事で睡眠時間すら確保できなくなっていた。
ある時から現場で怪我をすることが増えてきた、睡眠不足や過労による注意力散漫が原因であることは誰にでも理解出来ていた。ところが、私たちには何も出来ない、社長に異を唱えることは半殺しに遭うことを意味する。黙って働くしか無かった、だから労働災害が頻発し、その程度も酷くなっていった。


馬鹿げた会社に見切りをつけて、知人を頼って柄をかわした。暫くは息を潜め、捜索の手が止んだ頃合に知人の仕事を手伝うようになったが、この知人も反社の息がかかっていた。そしてまた知人を頼って環境を変えた。
最後に頼った知人と起業したのは何かの縁だったのだろうか、いいことも悪いことも嫌という程経験した。詐欺の被害に遭ったり、仲間の裏切りに遭ったり。だけども、何よりもビジネスパートナーと意見が合わない、考え方に隔たりがあると感じることが多かっただろうか。このビジネスパートナーと元は反社の人間だった。そして詐欺で服役したことのある人間だった。だからだろう、どれだけカタギで真面目に振舞っていても、中身は人を食い物にしようとする犯罪者そのものだった。当初はそれでも上手くやれていたが、資金繰りが上手くいかなくなった辺りから、詐欺まがいのことを繰り返すようになり不信感と焦燥感により心が離れた。


様々な経験を経て地元に帰ってきた私だが、地元に戻ってもなお心が落ち着いたことは無かった。宮城では生きるためにがむしゃらになっていたし、生きるためには何でもするしか無かった。だからやりたい仕事や自分に向いていることなんて考えたこともなかった。それが自由になったとき、どっと押し寄せてきた。これから何をしようか、なにをすればいいのか。私は何をしたいのか、何が向いているのか。何も分からないことで溢れかえった心の整理がつかぬまま、とりあえず身につけた行動力とフットワークの軽さで、手当たり次第に挑戦してみた。
結論としては、私に向いていたのは現場監督だった 。施工管理技術者として、建設業関わり続けることが何よりも肌に馴染むことが最近になってわかった。だからこそ今になって目標が溢れ、過ごす時間が豊かに感じられるようになった。

来年、再来年。どんな時間を過ごしているだろう、私はどんな生活を送っているのだろう。どんな人間になっているのだろう、何一つイメージがつかないが、それでもはっきりとした目標だけは掲げている。
一年後、私は新たに国家資格を取得しているだろう。そして、スキルアップして収入もアップして人間としても成長して、いまより一歩進んでいるだろう。
一年後、私は予備自衛官補の採用試験を受験するだろう。そして、もう一度国の守人として歩み始めるだろう。

今この時、たしかに時間は流れ続ける。そしてたしかに流れてきた時を振り返り、過去に思いを寄せることは出来る。しかし、これから先のことは誰にも分からない。もしかしたら私は急病で命を落とすやもしれないし、交通事故で大怪我を負うかもしれない。たった一秒先も、誰にも予測しえぬ未来であり、だからこそかけがえのない今がある。


私は不確かで不安だらけの未来にも、たとえささやかで実現できるか分からない目標でさえ希望の光として燦々(さんさん)と輝かせ、意地強く志高く生きていこうと思う。

一年後の姿は、今の写し鏡であるから。

4/17/2024, 11:59:30 AM

暖かく心地よい陽射しに季節の移ろいを感じ、時おり吹き荒む杪冬の風に身を震わせる。そんな初春も過ぎて、野山を街を淡く彩る薄桃色に目を癒す。

桜吹雪が、ひと足早く吹き抜ける初夏の風とともに私たちの日常を彩る。


執筆中...


昨晩、地震が発生しました。揺れが発生した地域にお住いの皆様、大事はないでしょうか。
私も、就寝したわずか一時間後のことでスマートフォンの鳴動する緊急地震速報で飛び起きた次第でございます。しかし、幸いにして私が暮らしている地域の揺れは小さく、被害は何もありませんでした。震源に近い地域の方、階層の高い建物にお住まいの方の不安は大きかったまのとお察しいたします。また、お怪我などなくご無事であることを心よりお祈り申し上げます。

4/8/2024, 11:38:56 AM

お気に入りに登録してくださっている皆様、こんばんは。桜が景色を彩り、山や野にはタラの芽や虎杖、ヨモギなどの美味しい春の野草が溢れる季節になりました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
この春から新社会人として不安と期待を胸に社会へ取り込んだピカピカの一年生さんも、自分の目標や夢、ステップアップのために進学された輝く一年生さん。そして転職や転勤などで慣れ親しんだ街を離れ新たな環境で暮らし始める諸先輩方、春の日差しが優しく注ぎ、朝晩はぐっと冷え込みまだまだ寒さも残るこの頃合に体調は崩されてはいないでしょうか。

私事ではございますが、ただいま担当しております仕事が今月末で一段落つきます。そして来月以降は異動となり、初めての街へと移り住む運びとなりました。この街に来て一年が経ちました。当初は三年ほどはこの街にいる予定でしたが、予定は未定というものでございますれば急遽この街を離れることになりました。
今思えばこの一年というのは非常に有意義で濃密な時間を過ごせたのでは無いかと、感慨にふけております。これまでの記事の中で触れてきました、私の持病であります「睡眠障害」との付き合い方も、付き合い方や向き合い方を身につけることが出来ました。なによりもメンタルコントロールが苦手で、腹立たしさなどの感情がその場では切り替えることが出来ていましても夜中にふつふつと沸いて来てしまって落ち着くことが出来なかったのです。しかし、この点も大分よくなりまして自制できるようになりました。
現在、私はほかの一部職員よりハラスメントを受けておりますがこの腹立たしさもその場で気持ちを切り替えて対処ができるようになりました。ハラスメントを行うものに対して、苛立ちを覚え憎むことは同じ土俵に立つこと、すなわち自らが腐りにいくことだと考えております。従って、私は極力おなじ目線に立たないよう心がけることで後ろ向きな感情をニュートラルに戻すことで感情の起伏をなるべく平滑にすることができるようになったのです。

同じ土俵、同じ目線、同じ思考回路に立たない、陥らないということが人間関係ではとても重要です。しかしながら、他人を敬い労り慮る心は大切にし続けなければなりません。
では具体的にどのように心構えをするのかでございますが、これは至極簡単なことでございます。悪口や陰口を言われようと、面と向かって心無い言葉を履かれようと、その言葉そのもの、或いはその相手への興味と関心の一切を捨てるのです。それが難しいのなら哀れで愚かな醜い下等生物程度に思ってしまうのです。少々極端で大袈裟な表現になりましたが、簡単にいえば相手を自分よりも心が幼く、実に矮小で仕方の無い人間で、心も性根も未発達であり対等な会話は愚か意思疎通が出来ない宇宙人のような人間。そんな風に考えることで、その人の言行がまるで無意味となるのです。

しかし、どんな相手にも例は尽くしてください。それが出来なければ自分まで地に堕ちてしまいます。ですが、嫌いな相手と親しくしようとすることも、その努力も必要はありません。全てが無駄な時間で無駄な労力にほかなりません。その時間も労力も自分を磨くために使ってくだされば、より多くの人から愛され大切にされる存在になります。

一つ一つの行いは巡り巡って、必ず自分自身に還ってきます。それは良いことも、そうでないことも全てです。

新しい環境、人間関係、あらゆることに悩み躓き立ち止まってしまうのが人生ですが、とりあえず周りを見てみましょう。心が救われるヒントが必ず散りばめられています。そして、自分を救ってくれる存在も機会も自分自身でいくらでも見いだせるのです。


お題とは関係の無いことでございますが、どうぞ皆様心の健康を第一に健康に過ごしましょう。

3/10/2024, 11:48:18 AM

今、私がこうして文字を起こしている間にもこの地球上のどこかでは新しい命がこの世に生まれ、そして消えていく。生まれたばかりの小さな命の灯火はそよ風に揺れていつ消えてもおかしくは無い。だけれど大きな想いの上にたしかにしかと輝いている。
燦々(さんさん)と輝き、強く逞しく燃え上がる灯火も、ここまてま揺らめくことなく明々と煌めいていた灯火も、突然に消えていく。果てるように静かに消えて僅かに残る温もりは、ふわりと立ち上り中に広がり消えていく煙の様。或いは勢います中で、突然の風に吹き消されるように不意に消えていく命。僅かな余韻さえも残さぬ不意の命の終わりは、終の実感さえ湧いてこない。胸の内にあるのは、ただただ心の中に冷たく強い風が鋭く突き抜けて行くような虚ろだけだ。

豊かな営みの中で自由に暮らし好きな衣服に身を包み、絶品の料理に舌鼓を打つ人々が住まう国。その反面、纏う衣服は擦り切れ穴が開き汚れている。食べるものはなく今日を生きることさえ厳しい国や地域がある。否、今この時でさえ命を繋ぎ止めることが困難で生きていて死んでいるような希望も何も無い生活を強いられている人々が多く暮らすところがこの星には数え切れない。
国政の問題、外交の問題だけに留まらない数多くの問題が山積しており自国たけで興すことは大義だ。貧困の中で飢えと乾きに苦しむ人々がいて、彼らの上にはあぐらをかいて私腹を肥やして贅沢を極める愚かな者がいる。国の人々とともに自らも貧困を選び再興を誓い、無我夢中で駆け続ける者もいる。
金は人を盲目的にするが、同時に強く現実に縛り続けるものでもある。そして食もまた生きるために必要不可欠であるが、その食も金がなければま得られない。自給自足の国や地域にあって最低限の食は得られるだろうが、生きていくためには金がなによりも重要になってくる。しかし、私がこうして文字を起こして明日にまた仕事へと出かけるが、これは職があるからである。職があって、職の選択も自由にでき、いつでもやめようと思えば辞められるほどにこの国が実はとても豊かである。この国にあってその金はどうにでもなるが、命を削って初めて食事すら賄えない僅かな稼ぎしか得られない人々が五万といる。
アフリカのある国のある地域では、平均月収が日本人の、それこそ小学生が正月に親戚などから貰うお年玉程度というところもある。もちろん、日本とは比較するに適切では無いがある程度の収入のあるところもあるが、物価やインフラなど生活の全てが日本とはまるで間違うことから一概に稼いでいるとはいえない。
昔、テレビでドキュメンタリーを視聴したのだかま、それは南アフリカのある地域の家族を必死に養う若い父親の暮らしだった。朝から日が暮れるまで市場で大切に育てた穀物を売るが、売り上げは微々たるもの。とくに稼ぐことが出来るのは、別の地域や国からやってくる行商や観光客や出稼ぎの道すがら寄り道に訪ねてきた人々があるときだ。それでも子供たちに十分な食事を与えるには苦しい。
彼の稼ぎはその地域の平均月収に届かない。平均月収まで届くならば裕福では無いが、飢えに怯えることは無いという。本音を言えば子供たちを学校へ通わせ、勉強を受けられるようにしてあげたいというが、実情は非常に無情である。一日の食事は朝と夜に「サザ」「ウガリ」「シマ」などと呼ばれる乾燥とうもろこしを調理したものである。これはアフリカの主食として知られるが、彼の家族では朝晩に僅かな食事を皆で分け合う。彼や彼の妻は子供たちが少しでも多く食べられるよう、子供たちへ多く分け与える。

生きていくには金が不可欠であると話したが、貧困に喘ぎ、飢えや乾きにもがき苦しむなかで一人でさえ生きていくのが苦しい。そんななか家族を子供を育てていくには金という目に見えるものだけでは成し得ない。家族を想う心や支え合い、尊び合う心があってはじめて手を取り合い生きていくことが出来るが、これは金では決して得ることが出来ず、生み出すこともまたできない。
どんな苦境にあって、辛苦の狭間にあって強く生きていられるのは愛する者があるからだろう。絆など安い言葉でしか表現出来ないが、まさに家族や愛し合う者の間に強く太く架かる絆という架け橋こそが命の灯火を絶やさず灯らせ続けることの出来る重要なものなのだろう。
私も明日、今日の食事すらできない状況に陥ったとき、金などなくプライドもなく、あるのは生への執着と腹を満たしたい、温もりの中で眠りたいという強い欲だった。しかし這い上がることが出来たのは、立ち上がり生きることが出来たのは支えてくれる人が現れたことだったからだ。見返りなど求めず、ただただ優しく微笑み、温かく包みこみ、痛いほど強く手を引いてくれる存在に出会えたことだった。そしてこれは決して金では買えなかっただろう。
生活を建て直した時、なぜ私に手を差し伸べたのかと訊けば「君が好きだから」と笑って返すのみだった。私を救った彼にしてみれば、私は子どもほどの年齢だったが「子どもの年齢だからでは無い」と後に答えてくれた彼がもうひとつ私に「人として尊敬しているから手伝っただけだよ」と耳打ちしてくれた。

この話を通して私が伝えたいことは、世界は広く国と地域で様々な人間模様や生活様式があり、営みの様相も様々だ。貧困といえば金のことと結びつくことがほとんどだろう、しかし心が貧しくなければ人はどんな中でも生きていくことが出来る。私は出会いに恵まれただけかもしれないが、この出会いは間違いなく自分で掴んできたものだ。そして、その機会も心が貧しかったなら有り得なかったことである。

愛だのなんだのと軽く言うつもりは無いが、せめてこの広い星の中で些細なことに固執せず、小さなことに盲目的になることなく前を見て生きて欲しい。誰かに親切に、誰かに施す心を持ち続け、誰かを思う心を養い続けて真っ直ぐひたむきに生きて欲しい。その生き方は必ず自分に対して何よりもの宝として様々な形で還ってくる。
法華経の教えの中に「還著於本人」というものがあるが、これはどんな行いも巡り巡って本人に返ってくることであり身近な言葉で言えば「因果応報」がピンとくるかもしれない。善い行い、例えば誰かに見返りを求めず施しをしたなら、いつか自分が大事の時に誰かが手を差し伸べてくれる。誰かに親切に丁寧に接していれば、敬いや良い評価として巡り巡って人間関係などで返ってくる。
しかし、悪態をつき悪口や陰口ばかりを行っていれば周囲からは距離を置かれる。また同じく、自分と同じように悪口や陰口を言う人から、知らぬところで悪く言われる。がめつく、何でも自分のものとしていれば本当に必要な時に必要なことも、ものも得られなくなる。周囲がそうさせなくなるからだ。
これは魔法でもおとぎ話でもない。悪事を働けば、その悪事が様々な形で本人に跳ね返るだけの事。善行を積めば、それを見ている誰かにそれが届く。そうなれば自分の徳として必ず何十倍にもなって還ってくる。
なによりも善い行いは、行った瞬間から心が幸せになるものである。それが例え自己満足や偽善であろうと、自分や他人のためなることであれば誰からも感謝をされる善行に他ならない。それを見て「偽善だ」と指摘されようとも、事実として誰かの為に尽くしたのならそれは立派な善行だ。褒められはしても、貶される言われは無い。

戦争のない世界、争いごとのない世の中。愛情に満ち満ちていて、誰もが幸せに微笑み豊かに暮らすことの出来る未来を作り出すのは他でもない、一人一人の善意と自戒である。そして、自律と自制が人を人たらしめるのであると私は考えている。


皆様、読み難いなか最後までお目通し頂きまして心より感謝申し上げます。「愛」や「平和」という、大きくも繊細な課題に脱線しつつも、何とか話に纏まりをつけることが出来ました。しかしながら、この言葉を文字として起こす中で技量不足を痛感いたしました。

お目が疲れたと思いますので、しっかりと休まれてくださいね。それではまた。

2/19/2024, 12:48:19 PM

皆様、こんばんは。お疲れ様でございます。
今度の冬は、不安定な気候が続いておりますが体調を崩されてはいませんか?

本題ではあひませんが、私がこれまで語ってこなかった不思議体験、所謂怪談について皆様はご興味はおありでしょうか。

幽霊など信じていないとおっしゃる方もおられますが、見えないのですからもっともなご意見でございます。私は幼い頃から周囲の方には見えないものが、ごく当たり前に見えてきたもので疑う余地がありませんでした。

なぜ今回このようなことをお伺いをしたのかと申しますと、私はX(旧Twitter)にて怪談師様へ怪談の提供をさせて頂いておりまして(ここ最近からです)
、私の体験したことを声でたくさんの方へ届けてくださる怪談師様へ託し、より多くの方に知っていただきたい、楽しんで頂きたいと思い始めました。そして、このアプリを楽しまれている皆様、そして私を作品を気にかけてくださる皆様は怪談などオカルトについてどのようにお考えかを問うてみたかったのです。もちろんこのアプリの仕様上、皆様のお答えを賜ること、知り得ることは叶いません。それでいいのです。ただただ、私がこの気持ちを、問いかけを投げかけてみたかったのです。


お仕事が忙しいために投稿がなかなか出来ていませんが、たまにこうして皆さまのお目にかかることが出来ましたら、私がまだこのアプリを全力で楽しんでいる、好きな文章を描きたい気持ちかま溢れているということが伝わるのかなと考えております。
四月末日をもって一度、お仕事に区切りが着きますので五月になりましたらまた毎日のように、たくさんの文章を書こうと思っております。お気に入りに登録下さったみなさま。そしてスクロールする中で私を見つけてくださった皆様に読んでいただけましたら嬉しく思います。私にとって、それが何よりもの励みであり喜びなのでございます。
このような稚拙なお話でさえ長文になってしまう私の文章力の拙さに、呆れることなく最後までお目を通して頂けること大変に喜ばしく思います。


いつも
ありがとうございます。

どうか、これからも
よろしくお願い申し上げます。

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