-ゆずぽんず-

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今、私がこうして文字を起こしている間にもこの地球上のどこかでは新しい命がこの世に生まれ、そして消えていく。生まれたばかりの小さな命の灯火はそよ風に揺れていつ消えてもおかしくは無い。だけれど大きな想いの上にたしかにしかと輝いている。
燦々(さんさん)と輝き、強く逞しく燃え上がる灯火も、ここまてま揺らめくことなく明々と煌めいていた灯火も、突然に消えていく。果てるように静かに消えて僅かに残る温もりは、ふわりと立ち上り中に広がり消えていく煙の様。或いは勢います中で、突然の風に吹き消されるように不意に消えていく命。僅かな余韻さえも残さぬ不意の命の終わりは、終の実感さえ湧いてこない。胸の内にあるのは、ただただ心の中に冷たく強い風が鋭く突き抜けて行くような虚ろだけだ。

豊かな営みの中で自由に暮らし好きな衣服に身を包み、絶品の料理に舌鼓を打つ人々が住まう国。その反面、纏う衣服は擦り切れ穴が開き汚れている。食べるものはなく今日を生きることさえ厳しい国や地域がある。否、今この時でさえ命を繋ぎ止めることが困難で生きていて死んでいるような希望も何も無い生活を強いられている人々が多く暮らすところがこの星には数え切れない。
国政の問題、外交の問題だけに留まらない数多くの問題が山積しており自国たけで興すことは大義だ。貧困の中で飢えと乾きに苦しむ人々がいて、彼らの上にはあぐらをかいて私腹を肥やして贅沢を極める愚かな者がいる。国の人々とともに自らも貧困を選び再興を誓い、無我夢中で駆け続ける者もいる。
金は人を盲目的にするが、同時に強く現実に縛り続けるものでもある。そして食もまた生きるために必要不可欠であるが、その食も金がなければま得られない。自給自足の国や地域にあって最低限の食は得られるだろうが、生きていくためには金がなによりも重要になってくる。しかし、私がこうして文字を起こして明日にまた仕事へと出かけるが、これは職があるからである。職があって、職の選択も自由にでき、いつでもやめようと思えば辞められるほどにこの国が実はとても豊かである。この国にあってその金はどうにでもなるが、命を削って初めて食事すら賄えない僅かな稼ぎしか得られない人々が五万といる。
アフリカのある国のある地域では、平均月収が日本人の、それこそ小学生が正月に親戚などから貰うお年玉程度というところもある。もちろん、日本とは比較するに適切では無いがある程度の収入のあるところもあるが、物価やインフラなど生活の全てが日本とはまるで間違うことから一概に稼いでいるとはいえない。
昔、テレビでドキュメンタリーを視聴したのだかま、それは南アフリカのある地域の家族を必死に養う若い父親の暮らしだった。朝から日が暮れるまで市場で大切に育てた穀物を売るが、売り上げは微々たるもの。とくに稼ぐことが出来るのは、別の地域や国からやってくる行商や観光客や出稼ぎの道すがら寄り道に訪ねてきた人々があるときだ。それでも子供たちに十分な食事を与えるには苦しい。
彼の稼ぎはその地域の平均月収に届かない。平均月収まで届くならば裕福では無いが、飢えに怯えることは無いという。本音を言えば子供たちを学校へ通わせ、勉強を受けられるようにしてあげたいというが、実情は非常に無情である。一日の食事は朝と夜に「サザ」「ウガリ」「シマ」などと呼ばれる乾燥とうもろこしを調理したものである。これはアフリカの主食として知られるが、彼の家族では朝晩に僅かな食事を皆で分け合う。彼や彼の妻は子供たちが少しでも多く食べられるよう、子供たちへ多く分け与える。

生きていくには金が不可欠であると話したが、貧困に喘ぎ、飢えや乾きにもがき苦しむなかで一人でさえ生きていくのが苦しい。そんななか家族を子供を育てていくには金という目に見えるものだけでは成し得ない。家族を想う心や支え合い、尊び合う心があってはじめて手を取り合い生きていくことが出来るが、これは金では決して得ることが出来ず、生み出すこともまたできない。
どんな苦境にあって、辛苦の狭間にあって強く生きていられるのは愛する者があるからだろう。絆など安い言葉でしか表現出来ないが、まさに家族や愛し合う者の間に強く太く架かる絆という架け橋こそが命の灯火を絶やさず灯らせ続けることの出来る重要なものなのだろう。
私も明日、今日の食事すらできない状況に陥ったとき、金などなくプライドもなく、あるのは生への執着と腹を満たしたい、温もりの中で眠りたいという強い欲だった。しかし這い上がることが出来たのは、立ち上がり生きることが出来たのは支えてくれる人が現れたことだったからだ。見返りなど求めず、ただただ優しく微笑み、温かく包みこみ、痛いほど強く手を引いてくれる存在に出会えたことだった。そしてこれは決して金では買えなかっただろう。
生活を建て直した時、なぜ私に手を差し伸べたのかと訊けば「君が好きだから」と笑って返すのみだった。私を救った彼にしてみれば、私は子どもほどの年齢だったが「子どもの年齢だからでは無い」と後に答えてくれた彼がもうひとつ私に「人として尊敬しているから手伝っただけだよ」と耳打ちしてくれた。

この話を通して私が伝えたいことは、世界は広く国と地域で様々な人間模様や生活様式があり、営みの様相も様々だ。貧困といえば金のことと結びつくことがほとんどだろう、しかし心が貧しくなければ人はどんな中でも生きていくことが出来る。私は出会いに恵まれただけかもしれないが、この出会いは間違いなく自分で掴んできたものだ。そして、その機会も心が貧しかったなら有り得なかったことである。

愛だのなんだのと軽く言うつもりは無いが、せめてこの広い星の中で些細なことに固執せず、小さなことに盲目的になることなく前を見て生きて欲しい。誰かに親切に、誰かに施す心を持ち続け、誰かを思う心を養い続けて真っ直ぐひたむきに生きて欲しい。その生き方は必ず自分に対して何よりもの宝として様々な形で還ってくる。
法華経の教えの中に「還著於本人」というものがあるが、これはどんな行いも巡り巡って本人に返ってくることであり身近な言葉で言えば「因果応報」がピンとくるかもしれない。善い行い、例えば誰かに見返りを求めず施しをしたなら、いつか自分が大事の時に誰かが手を差し伸べてくれる。誰かに親切に丁寧に接していれば、敬いや良い評価として巡り巡って人間関係などで返ってくる。
しかし、悪態をつき悪口や陰口ばかりを行っていれば周囲からは距離を置かれる。また同じく、自分と同じように悪口や陰口を言う人から、知らぬところで悪く言われる。がめつく、何でも自分のものとしていれば本当に必要な時に必要なことも、ものも得られなくなる。周囲がそうさせなくなるからだ。
これは魔法でもおとぎ話でもない。悪事を働けば、その悪事が様々な形で本人に跳ね返るだけの事。善行を積めば、それを見ている誰かにそれが届く。そうなれば自分の徳として必ず何十倍にもなって還ってくる。
なによりも善い行いは、行った瞬間から心が幸せになるものである。それが例え自己満足や偽善であろうと、自分や他人のためなることであれば誰からも感謝をされる善行に他ならない。それを見て「偽善だ」と指摘されようとも、事実として誰かの為に尽くしたのならそれは立派な善行だ。褒められはしても、貶される言われは無い。

戦争のない世界、争いごとのない世の中。愛情に満ち満ちていて、誰もが幸せに微笑み豊かに暮らすことの出来る未来を作り出すのは他でもない、一人一人の善意と自戒である。そして、自律と自制が人を人たらしめるのであると私は考えている。


皆様、読み難いなか最後までお目通し頂きまして心より感謝申し上げます。「愛」や「平和」という、大きくも繊細な課題に脱線しつつも、何とか話に纏まりをつけることが出来ました。しかしながら、この言葉を文字として起こす中で技量不足を痛感いたしました。

お目が疲れたと思いますので、しっかりと休まれてくださいね。それではまた。

3/10/2024, 11:48:18 AM