-ゆずぽんず-

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6/5/2023, 4:14:24 AM

私は生まれながらにして、決して裕福とは言えない生活を送ってきた。母子家庭で父がおらず、親戚もほとんど疎遠していたことから、母は女手一つで頑張って私たち兄弟を育ててくれた。五人兄弟の私たちの育児は毎日が戦争のようだっただろう、長子の長女と次子の長男には5歳ほど歳の差がある。長男と次男の間にも三歳ほどの歳の差があり、次男と三男でいる私、そして次女で末っ子の妹は二歳の歳の差がある。これは、純粋に兄弟全員の生活スタイルや行動がバラバラであるから、母は小学生の長女や長男を送り出したあとは、残る兄弟を保育所へ連れていく。末っ子の妹がまだまだ幼いうちは、保育所へ預ける時間が違うため、一度帰宅してからまた保育所へ向かう。そんな目まぐるしい朝を過ごして
、母は仕事へ向かっていた。


実家は鉄筋コンクリート四階建ての市営住宅で、その二号館の四階角部屋に住んでいた。間取りは2Kだったと記憶しているが、6人で住んでいれば広いとは言えないような部屋だった。玄関から見て右手にトイレ、正面にアコーディオンカーテンで仕切っている六畳の和室。玄関左手に向くとほんの気持ち程度の廊下、そして廊下の先左手にキッチン。そして、キッチンの奥にお風呂場があり、廊下右手にもう一部屋の六畳の和室がある。このふたつの六畳の和室は真ん中の襖で仕切られているが普段は半分ほど開け放っていた。どちらの和室にも、なぜだか大量の衣類がハンガーに吊るされていたが最後まで誰も着用しなかった。家の中は日差しが余り入らないため、いつも暗くジメッとしていた。家族が大所帯ということもあり、基本的にものが溢れていることもそう感じさせる原因だったのだろう。
私が高学年に上がった頃、芸予地震に見舞われた。あれば私が交通事故に遭った翌日か翌々日だった。足をトラックに轢かれて怪我をおっていた私は学校を休んでいた。朝一番で病院に行き、医師に状態を確認してもらってから帰宅してすぐのこと。母がインスタントラーメンを作ってくれたので食べようと思った正にその瞬間。ズドンと響くような揺れがあり、そのあとは激しく左右に揺れ、食器棚は倒れ!タンスやその上に置いていた仏壇も床に転がっていた。揺れが納まった時にはあまりの恐怖と突然の事で鼓動が跳ねていたが、ふと足元を見るとラーメンどんぶりが転がっており、熱いスープや麺が包帯を巻いた右足を染めていた。アドレナリンが出ていなのか熱さや痛みを感じることは無かった。ただただ冷静に状況把握に務めていたように思う。玄関に行き、靴を履いて私の靴を手に持った母が私に靴を履かせるとおんぶをして外に出た。外に出て階段を降りると、住民のみんなも集まって恐怖の瞬間について話をしていた。私は住宅の外観を眺めながら、もう住めなくなるのかもしれないと考えていた。住宅の外観は酷く損壊していた。コンクリートが剥離し、所々に亀裂が生じていた。
私の交通事故、そして地震と不幸が相次いだが、その後は平穏が戻っていた。半年ほど経過した頃、市役所から立ち退きとそれに伴う新築の市営住宅への入居の優先権が与えられた。入居自体は決定していたが、部屋割りはくじ引きであったと母が話していたのを覚えている。私たち家族皆で、先の芸予地震などの経験もあり入居するなら一階になればいいなと話し合っていた。抽選の結果一階の角部屋に決まり、みんなで喜んだ。その後、小学生の長男以下の私たちが学校にいる間、母と中学生の姉の二人で転居先の下見に行っていたらしく、私たちが帰宅すると誰もおらず鍵も閉まっていた。帰ってきた母たちに不満を口にしながら、私たちも行きたいと駄々を捏ねた。どうせ引っ越すんだからと怒られたが諦めきれなく、次に家財道具などのレイアウトの確認に行く機会があると言うので連れて行って貰うことになった。
家族みんなで日産のバネットに乗り込んで転居式の市営住宅に向かった。これまで住んできたところから徒歩30分ほど、山手へ登ることになったが周りは山や田畑に囲まれておりとても静かで長閑な環境だった。小学校へは一時間ほど歩くことになるが、それでも新築の市営住宅にワクワクしていた。3LDKで、六畳の和室がふたつ。五帖の洋間がひとつ。リビングとダイニングは併せて十二帖。脱衣所には洗濯機と洗面台があり、その奥には広いお風呂場がある。私たち男兄弟が過ごすことになる和室は日差しがあまり入らないため暗かったが広い押し入れがあったり、これまでの部屋のように余計なものがないこともあり快適さを感じていた。廊下には狭いが収納がひとつあり、その横にトイレ。脱衣所にも床下収納が少しあった。
母と妹が共に過ごすことになるもうひとつの和室は、一間の窓があり日差しが降り注いでいた。姉は五帖の洋室をひとりで使うことになったようだが、ここも薄暗かった。しかし、家全体は明るく広々としており期待に胸が高鳴ったのを今でもよく覚えている。
引越してからは、学校への道のりが長かったが帰宅後は遊ぶ場所に困らなかった。山や川、小さな池やダムのようなところもあり、釣りや虫捕りで駆け回っていた。しかし、この時からだろうか少しづつ精神的な変化が始まっていた。理由は無いのにやる気や元気が落ち込んでしまう事が増えたのだ。そのタイミングで中学へ上がったが、イジメを苦に親友が転校してしまった。何度も何度も親友を庇った。同級生に理解を求め、担任に救いを求めたが無駄だった。親友を失った私は人間不信に陥り、投稿することが嫌になった。イジメを黙認し、助けを求める声を無視するような下衆な大人が教鞭をとるという違和感に我慢がならなくなった。
家族ぐるみで付き合いのある生徒指導の先生に事の経緯を話し、教室に上がらなくてもいいように、担任に会わなくてもいいようにと都合をつけてもらった。それからは相談室や保健室へ行き、みなが授業をしている間は私も同じ教科を勉強していた。しかし、そこへ担任がやってきて無理やり教室へ行かされたり、意味不明な叱責を受けるなどしたため午後から帰宅。夕方に生徒指導の先生が訪ねてきて、担任教師が余計なことをしたと聞いたと言うので私からも事情を説明した。翌日からは私は私のタイムテーブルで動いて良いということになり、登校時間をずらし、得意な科目に専念して勉強することになった。周囲が何を思い、何を考えているのか目線で察することがあったが無視をした。そんな私を心配して、仲の良かったクラスメートが毎日のように少しでも隙があれば顔を出しに来るようになった。男子女子に限らず、クラスの半分程の同級生がいつも話し相手になってくれた。家庭科でご飯を作った時は持ってきてくれたし、お菓子を作った時は女子が差し入れをしに来てくれた。


そんな生活をしていると自分を卑下し始めてしまうのか、活力がなくなり下を向くことが増えていた。そんな時、カウンセラーの先生が絵を描いてみるといい。ものを作ってみるといいというので取り組んでみた。私が書いた市営住宅の風景図やジェンガで作った神社のような建物を見たカウンセラーの先生は、これを写真撮影して興奮気味にどこかへ出かけてしまった。翌日、コンクルールへ出してみないかと美術部の顧問と私が席を置いている研究部の顧問とカウンセラーの先生が尋ねてきた。結果を言えば断った。気まぐれで書いた画法もめちゃくちゃな絵を評価されることに、恥ずかしさを感じたからだ。しかし、先生たちは諦めなかったのでコンクルールには出さないけど、どこかに飾るのは構わないと伝えるとその日の内に、美術部と研究部に貼りだされた。私の絵を見た部員やクラスメートが絵を描いて欲しいと尋ねてきたが、知識も技術もない私には出来ないと断ったが、気まぐれで描いた時でいいからその絵を提供して欲しいと言われたので以降は満足いくものだけをカウンセラーの先生を通じて提出していた。


私が過ごした生家はものに溢れ狭ぜまとしており、転居した新築の市営住宅も住み始めて2年ほどで狭く感じるようになった。これは単純な話だが、母は片付けや断捨離が出来ない人だからだ。明らかに不要な物も処分をしないし、とりあえずテーブルや床に物を置く。こういう性格の母と、私と姉以外の、そういったことを全く気にしない兄弟たちによって家中にものが溢れるようになったのだ。中学校では、私の所属していた研究部は他のどの部よりも狭かった。私が通っていた相談室はそこそこ広かったが、私が勉強のために借りていた相談室奥の部屋は激狭だった。私の人生、どこにいても環境をどれだけ変えても「狭い部屋 」という空間はついてまわった。だからだろうか、ものすごく広い部屋や空間に対するこだわりが強い。その癖して、広い部屋を借りてもロフトなどの狭い空間が備わった間取りを選んでしまう。そして、寝るのもそういう狭いところだ。相反する行動と気持ちは、きっと私が私自身を守るための潜在的なものなのかもしれない。広い空間で活動していたいのだけど、寝る時などパーソナルな空間は周囲を直ぐに把握出来る状況に置いておきたいのかもしれない。

私にとって「狭い空間」や「狭い部屋」といったものは、私の人格や人間性を形成、維持する上でとても重要なものなのかもしれない。そして、恐らくそれはこれまでの生活や経験から得てきた生き方なのだろう。

5/23/2023, 1:06:05 PM

「逃れられない呪縛」


時間のある時に投稿したく思いますので、メモを残しておきます。ん?この間のものも書いている途中では無いか。テーマも覚えていないので、なにか思いついたことを描きます。


私の投稿ばよんでける人がいるかどうか分からないですが、もし楽しみにされている方がいたらば、待っててけらい。すぐに書くはんでな!

5/20/2023, 10:27:38 AM

思い描く自分の姿を叶える為に努力を惜しんではならない、そう心して様々なことに挑戦し続けている。少しでも数字に強くなりたい、数字を言語ではなくイメージとして捉えることができるようにと珠算検定を視野に算盤(そろばん)を始めたのは一年と半年ほど前のことだ。実家に、姉が小学生の頃に使っていた算盤があった為、アプリと併用して勉強をするようになった。当初は、珠の動かし方や繰り上がりや繰り下がりが理解出来ず悩んでいた。これは子供のうちの柔らかい頭でしか理解できないのかと半ば諦めていたが、2ヶ月ほど経つと身体が覚えてきたのか理解が追いついてきた。


執筆中
「お気に入り」に入れていただいております皆様、
転職を機に多忙になってしまい、なかなか投稿が出来ておりませんでした。しかし、G7サミットに伴い、お休みが頂けましたので久しぶりに投稿を続けております。長らく投稿をお休みしておりましたこと、深くお詫び申し上げますと共に、あたたかく見守ってくださいましたこと、こころより御礼申し上げます。
また、私の稚拙な超駄文に目を通してくださり、誠に恐縮でございます。私の投稿はフィクションではなく、実体験などから学び得たことや感じたこと、またその中で培ってきた経験であったり、身についてきた考え方に基づいて執筆して御座います。
読み難い点など、多々あるかと存じますが、どうぞ引き続き応援下さいますと幸いです。

最後に、沢山のユーザーの皆様の投稿もまた、私の貴重な財産です。これからも勉強させていただきたく思いますので、どうぞ宜しく御願い申し上げます。

お風呂入ってきます!

5/20/2023, 3:23:54 AM

旧友と飲み交わした金曜日の夜、他愛のないことに笑顔を輝かせだらしなく頬を緩めて笑う姿も肴になる。翌日が休みであることが、こと更に酒を美味くする。終始笑顔ではしゃぐ姿が眩しい。
仕事場で知り合い、意気投合した職人と毎朝のように出勤前にカフェを楽しむ。私よりも一回り以上も年上の彼とは、先月まで応援で入っていた現場で知り合った。現場に入ってすぐの頃は挨拶をする程度だったが、思い切って話しかけてみて世間話をしたのが仲良くなるきっかけだった。GW明けに異動になり、現在の現場を担当することになった。私は人に情が湧きやすいため、彼以外にも多くの職人と親しくなっていたことから寂しさを感じずにはいられなかった。しかし、彼とだけは連絡先を交換していたことが縁を繋いだのだろう。
私は毎朝四時に起床する。身支度を済ませて六時前には片道三十分の事務所へ向かう。途中、事務所近くの駐車場で車を乗換える。事務所に到着すると、朝の準備を済ませてのんびりするのだが、そんな時に彼から電話が鳴った。「おはよう。今どこ?コーヒーする?」とカフェのお誘いだった。事務所近くのコンビニは彼の通勤経路の途中にあり、そこが私たちのモーニングカフェの決まり場所となった。以来、毎日のようにそのコンビニで彼と落ち合って三十分ほど会話を楽しんでいる。ときに、相談をしてアドバイスを頂いたりしている。
工区では二十歳の職員と二人で現場を見ているが、その職員は六月に異動が決まっている。私は彼の業務を引き継いで、今後はひとりで管理していくようになる。若い彼にはまだまだ常識的なことや社会通念上のことなどが足りていないように思うが、素直で真面目だ。そして、私に適度に気を使いつつ心を開いてくれ、何でも話をしてくれる。また、私も分からないことは彼に確認を取るが、嫌な顔をせず丁寧に教えてくれる。さらに、元請け職員のなかにも若い方がいる。二十五歳の元請け職員の彼は、院卒ということもありしっかりしている。今まで学んできたことは現場では通用しない、みぎもひだりも分からないと不安になっていたが、職人さんと仲良くなること、分からないことは上司に聞く前に自分で調べてみて、分からなければ職人に聞くのが一番早い。その上で気になることを簡潔にまとめて上司や先輩に確認をとるようにすれば、吸収速度は何倍にもなるのだと、アドバイスをすると笑顔で返事を返してくれた。その後、それを実践している姿を見ると本当にいい子なんだと感心する。そして、尊敬する。
きっと、様々な考えや目標があってこの仕事を選んで専攻してきたのだろう。期待や不安に胸をふくらませて入社したのだろう。楽しみやドキドキに踵を弾ませて現場に配属されてきたのだろう。しかし、彼の周囲には優しい上司が揃っている。三年後には立派な現場監督になっているだろう。驕らず、恥じず、悖らず、努力を惜しまず探求し続ける姿勢さえあればどんな姿にもなることが出来る。決して自惚れず、どんなにゆっくりでも真っ直ぐに歩んでいってくれることを願っている。

さて、なぜこのようなことを語ったのかと言えば、人というものは、生き物というものはいつこの命に終わりを迎えるか分からない為である。一度きりの人生を無駄にすることなく、少しでも有意義に過ごすためには怠惰であってはならない。子供の頃に人生の長さを考えたことがある人は少なくは無いだろうが、人生の折り返しは実を言えば体感的には18歳頃になる。これは研究結果も出ている。高校を卒業する頃、または中卒で働き始めればひとつの区切りである歳でしかないが、この頃になると人はあらゆることの経験を積んできている。人生の様々なアトラクションの大部分を体験していることになることから、新鮮味を感じる機会や時間が極端に減る。人の体感時間は、如何に新しい環境や新鮮な環境に身を置くかで変わることが分かっている。つまるところ、余程の新鮮な体験を自ら得ていかない限りは人生の体感速度は歳を追うごとに、益々加速していく。これは本人が無自覚無意識であればあるほどに如実に現れる結果となるため、今を生きることがどれだけ尊いことであるのか分かる。
私が親しくなった人達との別れを惜しみ、若い職員の将来を楽しみにしてアドバイスを与える背景にはこのような考えがあるからだ。1度きりしかなく、しかもその人生は歳を追うごとに速度を増していくのだから貪欲でなければ、ただただ無駄にしてしまうのだ。言わば時間をドブに捨てているも同然であると言える。時間は、財産そのものだ。そのドブに捨てた時間で、金を得られたやも知れないし、リスキリングに注力して自身の付加価値を高めたかもしれない。全てが等しく与えられた財産であるにもかかわらず、むざむざと無駄に生きて咲くはずの花を種のまま腐らしてしまい兼ねない。故に、願わずにはいられない。人との別れを惜しむことも同じことだ。良い知己は財産である。


私がここまで熱弁してきたことの根底にある考えは、生き物である以上は様々な要因や因果があって突然に命を終えることがある。昨日笑顔で会話を交わした人が、翌日の朝に息を引き取ったことがある。急性心不全だったそうだ。病気もなく、趣味が運動などで適度に楽しみながら生きていた人がなんの前触れもなく急逝したのだ。突然の別れというのは誰にでも、訪れるものだ。だからこそ、人の背景に目を向けてしまうだ。そして情が湧いてしまうのだ。


私もまた、明日、今日、もしかすればこの後に命尽きるかもしれないのだ。

5/18/2023, 8:05:24 AM

同僚や上司とルームシェアをして、共同生活をしていた私には自分のために使える自由で制約のない時間などありはしなかった。


毎朝、4時に起床して朝食を用意するところから始まる一日は私にとって何よりも不条理なものだ。ただ作ればいいのではなく、上司からのリクエストにも応えなければならない。あれが食べたい、これが食べたい、食事は何品用意して欲しいという子供のような要望を全て実現させなければ仕事中に苦しめられることになる。従って、甘めのものと甘さ控えめのものや出汁を入れたものなどバリエーションに富んだ卵焼きを作った。鮭は粕漬けしたものや、味噌漬けしたもの、塩焼きしたもの。ソーセージ
は「赤ウインナー」や「アルトバイエルン」を好みに合わせて調理する。汁物はお味噌汁や中華スープなど最低でも二種類を作る必要がある。
朝食の用意が済めば、前日におかずを詰めておいたお弁当箱にタイマーで4時に炊き上がった炊きたてのご飯を装う。そして作業着や、水筒やドリンクの用意を済ませる。全てを終えて、全員を起こしてみんなで食事をする。そのあとは車に乗り合わせて現場仕事へ。これが毎朝のルーティン。昼休憩にはお弁当の感想と希望を聞き、今後の参考のためにメモをとる。ここまでするのは、純粋に期限を損ねられても面倒だからだ。子供地味た大人に対して、同じ土俵で物事を考えていたらより面倒になる。不満はあるが割り切って、私が大人になるしかない。
仕事を終えて家に帰れば、全員分の洗濯物を処理する。洗濯機が騒いでいる間に朝食時の食器を洗い、タオルで水気をふき取って傍らのテーブルに置いておく。冷蔵庫や冷凍庫の中から、考え無しに大量買いされてきた食材を選別して取り出す。食材を見て何を作るか何時な作るか瞬時に決めれば調理開始だ。同時進行で、1時間半の間に7品と酒のツマミを3品作ってテーブルに並べる。私を除く全員が食事をしている時、私は洗濯物や使用した調理道具の対応に追われるが頭が子供な上司らは「一緒に食べよう。後でやればいいよ」という。実に浅はかで、他人任せな思考回路だ。今やらねば、間に合わぬというのに。それに、私は料理を作ると食欲が失せるのだ。だから私はこの時に食事をすることを拒んで、片付けやその他の家事を行うようにしていた。

全ての仕事を終えて開放されるのは、22時を回った頃。私は恋人と電話をするため外へ出かける。徒歩3分のコンビニへ行き、おにぎりをひとつと酒を買って近くの植え込みに座り込む。恋人へ電話をかけて食事と晩酌をしながら話に花を咲かせる。とはいえ、話す内容なんて他愛の無いものでだ。それが私にとって一日で唯一の癒しなのだ。星空を見上げ、離れたところに住む恋人を想い酒を飲む。偶に交番から防犯巡回出ているパトカーが角を曲がり、通りをゆっくり走っているのを見かける。私の目の前を通れるやパトカーは停車し、警察官が降りてくる。そりゃあそうか、植え込みに座り込んで酒を飲みタバコを吸いながら電話をしていれば声をかけたくもなるだろう。聞けば私が未成年者に見え、遅い時間に酒を飲み、タバコを吸っていたので声をかけたのだという。職務質問を終えて世間話を少々して、愚痴を聞いてもらい励ましの声を貰う。その後も恋人との会話を日が変わるまで楽しんだ。


人も虫も街も寝静まった静かな時間に、たった一人真冬の星空の下で愛する恋人の声に、その優しさに、温もりに酒の酔いと共に酔いしれて今日という日を終える。明日の激動に備えて、リセットすることが私の生きる力そのものだった。だから、乗り越えられた。そして、その経験が今の私を輝かせている。

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