同僚や上司とルームシェアをして、共同生活をしていた私には自分のために使える自由で制約のない時間などありはしなかった。
毎朝、4時に起床して朝食を用意するところから始まる一日は私にとって何よりも不条理なものだ。ただ作ればいいのではなく、上司からのリクエストにも応えなければならない。あれが食べたい、これが食べたい、食事は何品用意して欲しいという子供のような要望を全て実現させなければ仕事中に苦しめられることになる。従って、甘めのものと甘さ控えめのものや出汁を入れたものなどバリエーションに富んだ卵焼きを作った。鮭は粕漬けしたものや、味噌漬けしたもの、塩焼きしたもの。ソーセージ
は「赤ウインナー」や「アルトバイエルン」を好みに合わせて調理する。汁物はお味噌汁や中華スープなど最低でも二種類を作る必要がある。
朝食の用意が済めば、前日におかずを詰めておいたお弁当箱にタイマーで4時に炊き上がった炊きたてのご飯を装う。そして作業着や、水筒やドリンクの用意を済ませる。全てを終えて、全員を起こしてみんなで食事をする。そのあとは車に乗り合わせて現場仕事へ。これが毎朝のルーティン。昼休憩にはお弁当の感想と希望を聞き、今後の参考のためにメモをとる。ここまでするのは、純粋に期限を損ねられても面倒だからだ。子供地味た大人に対して、同じ土俵で物事を考えていたらより面倒になる。不満はあるが割り切って、私が大人になるしかない。
仕事を終えて家に帰れば、全員分の洗濯物を処理する。洗濯機が騒いでいる間に朝食時の食器を洗い、タオルで水気をふき取って傍らのテーブルに置いておく。冷蔵庫や冷凍庫の中から、考え無しに大量買いされてきた食材を選別して取り出す。食材を見て何を作るか何時な作るか瞬時に決めれば調理開始だ。同時進行で、1時間半の間に7品と酒のツマミを3品作ってテーブルに並べる。私を除く全員が食事をしている時、私は洗濯物や使用した調理道具の対応に追われるが頭が子供な上司らは「一緒に食べよう。後でやればいいよ」という。実に浅はかで、他人任せな思考回路だ。今やらねば、間に合わぬというのに。それに、私は料理を作ると食欲が失せるのだ。だから私はこの時に食事をすることを拒んで、片付けやその他の家事を行うようにしていた。
全ての仕事を終えて開放されるのは、22時を回った頃。私は恋人と電話をするため外へ出かける。徒歩3分のコンビニへ行き、おにぎりをひとつと酒を買って近くの植え込みに座り込む。恋人へ電話をかけて食事と晩酌をしながら話に花を咲かせる。とはいえ、話す内容なんて他愛の無いものでだ。それが私にとって一日で唯一の癒しなのだ。星空を見上げ、離れたところに住む恋人を想い酒を飲む。偶に交番から防犯巡回出ているパトカーが角を曲がり、通りをゆっくり走っているのを見かける。私の目の前を通れるやパトカーは停車し、警察官が降りてくる。そりゃあそうか、植え込みに座り込んで酒を飲みタバコを吸いながら電話をしていれば声をかけたくもなるだろう。聞けば私が未成年者に見え、遅い時間に酒を飲み、タバコを吸っていたので声をかけたのだという。職務質問を終えて世間話を少々して、愚痴を聞いてもらい励ましの声を貰う。その後も恋人との会話を日が変わるまで楽しんだ。
人も虫も街も寝静まった静かな時間に、たった一人真冬の星空の下で愛する恋人の声に、その優しさに、温もりに酒の酔いと共に酔いしれて今日という日を終える。明日の激動に備えて、リセットすることが私の生きる力そのものだった。だから、乗り越えられた。そして、その経験が今の私を輝かせている。
息が上がり、汗が首筋を伝う。額から流れ顎へと溜まった雫は重力に従って床へ落ち、足を滑らせる。ベンチに敷いたタオルはすでに多量の汗を含んで重く濡れ、来ている服もグローブもまた水気を帯びている。履いているシューズの中では、靴下もインソールも溢れ出て、伝い降りてきた汗を吸い混み続けている。
分割法を用いるようになって、早6年を迎えただろうか。時に多忙が故に追い込むことはおろかこの重みを感じることも出来なかった時間がある。しかし三分割や四分割でのメニューを立ててからは、一回あたりの向き合う時間、追い込む時間がより濃密になったように感じる。全集中で追い込まれパンプしてくる筋肉もまた、その事実をダイレクトに伝えてくれる。
ワークアウト1時間前にプロテインを飲み、気持ちを高めるために動画投稿サイトにてこの日行う部位のトレ動画を漁る。視聴するチャンネルは、登録しているものから選ぶ。その日その時の気分次第で決まるが、どのような追い込み方をするのか、どのように終えるのかをイメージする。そのイメージに沿って視聴チャンネルを決める。つまり、クリエイターにはそれぞれの個性やトレーニング方法がある。考え方も違えばセットの組み方も違う。自分の行いたいものにマッチする動画を見ることで、アドレナリンを放出させるのだ。ある程度気分が高まってくれば、作っておいたワークアウトドリンクを少量ずつ摂取しながら、しっかりと動的ストレッチを行う。筋肉の繊維と会話をするようにストレッチをすることで、更なる意識向上を図る。
ストレッチを終えれば、メニューの作成だ。レイズ系やプレス系など同じ部位でも様々な種目が存在する。私はフリーウェイトでは、全部位では概ね五十程の種目から都度メニューを決めている。さて、今日は胸と背中、肩と腹の日だ。胸はBP、DIP、DDP、DF、PO を各6セット。背中はDL、HDL、SLDL、DDL、BOL(H/L)、SS を各6セット。肩については本日はレイズ系種目メインの為、FR、SR、RRの他にプル系種目としてFPを加えて、各6セット。腹はLR、MC、クランチ、プランク、SB を各6セット行う。ワークアウトの予定時間としては、2時間が目安だろうか。ワークアウトドリンクはリッターシェイカー2本を用意してある。
滾る気持ちも、疲労が溜まっていくにつれて挫けそうになってくる。脚トレに比べればこんなものまるで気にしない程度のものでしかないが、辛いものは辛い。血管運動性鼻炎の私にとって、ワークアウトの時間が長ければ長いほど、運動量が多ければ多いほど鼻をかむ回数も増える。否応なしに鼻水がとめどなく溢れてくるからだ。何度かんでも鼻がつまり息が苦しくなる。そのストレスで集中力も傾き始めるのだが、これも私にとっては毎度の試練である。多いときで一度のワークアウトで五十回ほど鼻をかむのだが、時に血が滲む。摂取するドリンクが鼻水で放出されているのではないかとさえ思えてくる。しかし、気持ちが折れた瞬間に集中力はどこかへ飛び去っていってしまう。必死に自分を鼓舞して、今という時間、この苦痛という喜びにしがみつくのだ。この厳しく苦しい時間を乗り越えた先に、自己満足というゴールデンタイムが待っているのだから。
私はワークアウトの前後で、摂取するプロテインのメーカーやフレーバーを変えている。ワークアウト前はなるべくあっさりしたフレーバーで溶けやすいものを選び、ワークアウト後は溶けずらいものでもなるべく甘く美味しく満たされるものを選んでいる。理由は簡単だ、ブレンダーに水を注ぎプロテインやバナナ、ブルーベリーや卵、サプリメントを投入しスイッチを押すからだ。どんなに溶けずらいプロテインでもドロドロのシェイクになってくれる。このシェイクは容量としては最終的に700ml程になる。これを一気に飲み干すのだ。この時が生きていて一番の満足感を得られる。苦しくとも、どんなに辛くとも鞭打って頑張って頑張って耐え忍んだ後に、最高の褒美が待っている。それが、私にとってこれほどに素晴らしい幸福感をもたらしてくれるのだ。アイスやスイーツスラも敵わぬ至極で至高の瞬間だ、この瞬間なくしては生きていくことは出来ないだろう。
さて、ここまでワークアウトやその後のプロテインという褒美の話をしたが、実はもうひとつ褒美があるのだ。それは、「筋肉痛」という普通であれば苦痛や不快と感じるものだ。私にとっては何よりもの褒美でしかない、それは追い込んだ証だからだ。ただ追い込んだからという訳では無い。普段から追い込んでいるにもかかわらず、更にしさ新たな刺激を与えられたのだという結果を知ることができる方法だからだ。だからこそ、褒美と言える。鼻水にストレスを覚え、疲弊しながら耐えた先に甘い褒美がある。そして、ワークアウトが無駄ではなかったのだという事実を痛みを伴って認識できる。もちろん、酷い筋肉痛になってしまった時は褒美でもなんでもない。なぜならワークアウトが出来なくなってしまうからだ。しかし、基本的にはワークアウトを朝行えば、昼過ぎから夕方には筋肉痛がやってくる。それも、一日二日で去っていくのだから素晴らしいものだ。
一般的に、トレーニーはドMと言われる。これは適当であるとも、間違いであるとも言える。なぜなら、自分自身で嫌という程追い込むという鬼畜の所業を強行する頭のおかしい気概。そして、苦しみを気持ちいいとさえ感じる精神。これはトレーニーやアスリートなど当事者にしか分からない部分かもしれないが、つまり言い得て妙といえる表現はずばり「変態」だろう。これこそ、最高の褒め言葉であり自身を誇り自信をつける究極のワードだ。
簡潔に言おう。ワークアウトとはトレーニーにとって至福の時間であり、そのフィールドはまさに地獄と天国の両極端にある場所だ。そして、感じる苦痛も痛みも全てが幸せになるためのエッセンスであり、スパイスである。つまるところ、楽園のようなものだ。
「生きる意味」
これも、お休みの日に執筆致します。
本業と、前にお世話になった会社の応援でなかなかお休みが取れませぬ!
「流れ星に願いを」
次の土曜..も仕事なので
日曜日に執筆致します。
どうか、お待ちいただいて
是非、お目通し頂けましたら幸いです。
人というのは、いつも心のどこかで自分の居場所や本当の価値というものを探しているものだ。
かくいう私もそうである。真に必要とされる場所、求めてくれる存在というのを探している。私には得意なことが、これといって思い浮かばない。趣味も仕事もパッとしないのは、私自身が中途半端に生きてきたからだろう。起業して多くの従業員を雇用し、共に汗を流したこともあった。経験のないことにいつも全力で臨み、全力で楽しんで覚えてきた。だが、私には何も無いように感じている。培ってきたこと、得てきたものなど、いざと言う時にまるで役に立てていないように思えてならないのだ。私は私自身を正しく評価してやれていないのかもしれないが、それを理解していても尚、自分を過小評価してしまう。どれだけ職場で他人から評価され、必要とされていても私の心の中では「私は何もしていないし、役に立っていない。なのに、なぜそんなことを言うのだろう。気を使っているのならやめてくれない」、そう思ってしまうのだ。
先月、とある業者の班長と一週間だけ仕事を共にした。班長は私の仕事や、仕事に対する姿勢や考え方や人間性を評価してくれた。そして、「お前と一緒に仕事がしたい。俺の会社に来てくれ。俺の後継者になって欲しい。お前が好きや」、と声までかけてくれたのだ。連絡先は交換していたので、LINEで中身のない会話をしたりする。今日も、10時頃に電話があったのだが、会話の中身はまるでない。ただ、冗談を言い合ってゲラゲラ笑って二十分ほど話をした。この時も、今の仕事をやめたら来て欲しいと声をかけられた。
私はこの班長が大好きだ。人としても、職人としても、上に立つものとしても。班長はわたしと仕事に対する考え方が非常に良く似ているだけでなく、優しく朗らかで非常にユニークで面白い人だ。仕事中に怒ることはないし、いつもニコニコと笑顔で冗談を口にしては皆を笑わせて雰囲気作りに徹している。仕事の中で危険なことがあれば厳しく注意はするが、それは事故防止ためでしかなくいつもでもネチネチと口撃するようなことはしない。ミスをした時もミスを責めることは無い。一度、班長の部下の新人さんが本来必要である材料とは別の材料を積載してきていた。現場から事務所まで片道30分以上かかるのだが、班長はその誤りを指摘せず、別の若い子(入社半年)を連れて行って必要な材料と交換してくるように指示を出して見送った。一時間後にふたりが戻ってきて作業が開始するはずだったが、載せ替えてきたものがまた違うものだった。直ぐに班長が新人さんを連れて事務所に戻って行った。
夕方、事務所に戻ったときに新人さんの元気がない様子をみてミスについて自責しているのだろうと思った。班長に「ミスについて凹んでる?」と聞いたところ、そうだという。しかし、班長はそのミスについて「もう終わったことや。いつまでもクヨクヨすんな!誰も怒ってないし、お前のことを責めてないやろ?それに、あれは俺のミスでもあんねや。お前がクヨクヨしとったら、俺はどないしたらええねん」と、新人さんに声をかけた。しばらく経って、私が帰るころに様子を見ても落ち込んでいたので再度励ましの言葉をかけて班長と冗談を言い合ったが、やはりどこか自分のミスとして自分を責めているようだった。しかし、その気持ちは私には痛いほどよくわかる。というのも、私は自分のミスをとにかく引きずるからだ。立ち直るのに5分もかからない時もあれば、1日悩むこともある。吹っ切れてしまえばなんてことの無いものだったりするのだが、それがなかなかに出来ないのだ。こういう性格だからこそ、仕事において良くも悪くも強く影響する。
ミスについて「あのミス、ミスというかあれはミスやないんやけどな。そもそも、俺が材料を積ませて確認を怠ったのが悪いし、若い子ら二人に取りに戻らせたのも間違いだった。最初から俺が行けば良かった話やねん。そしたら、あいつも落ち込まんですんだんや」と、肩を落としていた。さらに、「仮にな?仮にやで、誰かがミスをしても絶対に怒らへんし責めたりせぇへんで。そんなことしてもつまらんし、おもろないやん。仕事もやりにくくなるだけやしな」と、続けた。
班長は仕事は楽しく、いつまでもダラダラ、ズルズルせず、やる事をやって早く仕舞って帰るというのが仕事上の考え方だ。人間なんて、集中できる時間は限られている。ならば短期決戦でチャチャッと仕舞いにすればいいし、そのために全力で仕事をすればしんどいのも大変なのも短時間で済む。そして、どうせ仕事をするならメリハリをつけて楽しく面白おかしくしようと言うのがこだわりでもあるという。事実として、私も班長や班員の方を見ていて強く楽しそうな雰囲気を感じた。私も班長と同じ考えを持っているため、仕事は楽しくてなんぼと思っているし、そうなるようにしてきた。しかし、この班長の会社ほどストレスフリーで、皆が生き生きしているところは見たことがなかった。だから私も惚れたのだ。
私自身も、班長の元で楽しく、馬鹿みたいに女歌を言い合いながら仕事をしたいと強く思っている。こう思うのは、目にした様子がとても良かったからだけでは無い。未経験分野であるにもかかわらず、私を評価して、期待してくれているからだ。「お前と仕事がしたい」、「俺を助けて欲しい」という私を必要としてくれる言葉が、私の心に響いたからだ。私は今の職場を楽しいと思っている。分からないことも、いつでもなんでも聞けば暖かく優しく教えてくれる。職人さん達もいい人たちばかりで非常に良い雰囲気だ。
だが、途中にも触れたように、私は自信をもてず過小評価をしてしまう性格だ。いつも心のどこかで、私がいるべき場所はここでは無いどこかなのかもしれないとなやんでいる。そして、これは仕事でなくプライベートな面でも全く同じことが言える。
私が性別問わず、懐いてしまうのは、惚れ込んでしまうのは恋愛感情とは少し違う。私を求めてくれるから、その声に惹かれるのが要因だろう。しかし、これでは単なる風見鶏だ。私には、まだまだ課題が山積しているようだ。