....また15連勤が確定した。ためているお題の執筆ができないのは、楽しんでいただいている皆様や待ち遠しく思って頂いている皆様に申し訳がなく辛く悲しい。泣いてもいいですか?
明日、お仕事が早く終わったら
執筆したく存じます。
どうか私のことを見捨てず、お待ち頂けましたら幸いです。
「怖がり」
やーーーっと日曜日にお休みが取れたので、
日曜日に貯めていた分を投稿致します。
その時は、是非目を通して頂けますと幸いです。
「ずっと隣で」
後日に執筆するため、お題を残しておきます。
只今絶賛連勤中の為、
余裕がないために書けません!
ごめんあそばせ!
「富」や「名声」などというのは誰もが昔から掴もうとしてきたものだが、これというのは言うほど大それたものでは無い。「富」とは莫大な資産のことを指すのだろう。「名声」とは誰にでも広く名が伝わることを指すのだろう。しかしだ、このどちらも現代社会においてはなかなか違和感のある響きだ。
その日その日を食いつなぐため、ただひたすらに仕事に励むひともあれば、パチンコなどの遊戯や競馬などの勝負事を楽しむために働くひともいる。かと思えば、老後や万に一つの病気や怪我に備えて貯蓄をする人もいる。資産形成をすることで財産を残すもひともあれば、子や孫の先長い未来のために備えるひともいる。起業して大きく成長させて、大きな財産を獲得することもあれば運がいいか、宝くじや勝負事で大きな金を掴むこともある。いずれにしてもそれは滅多なことではない。誰にでも可能性はあるが、その可能性の先にある運や縁を掴むことが出来るかどうかで結果は左右される。片や、背負わされた借金で困窮することもあれば、自堕落な結果として空に困ることもある。
昨今の物価高止まりや低賃金などで、稼ぐことも財産を蓄えることも難易度が上がったと感じる者は少なくはないだろう。賃上げ政策などは、蓋を開けてみれば企業努力という中々に難しく首を締め上げることで却って経済を不安定化させている。この時世にあって、節約や倹約こそすれ、貯蓄を継続していくのは難儀だ。子育てをしている世帯を始め、毎月途方もない資財を費やす環境下で家族を守るのが精一杯という状況のひとも多いだろう。私の母は肝臓癌を患い、治療に伴う出費が大きい。その負担は兄弟などで持ち合うが、私の兄弟はまともに働いていない為に私だけが毎月のように金策に頭を悩ませている。
冒頭に述べたことだが、「富と名声」はだいそれたことでは無いということについて。これは、この時制にあってほとんどの国民が食うに必死だ。だからその日その日で生きられるだけの金を左傾でいるだけで素晴らしいし、とてもありがたいことなのだ。病気や事故で、働きたくても働けない人達もできる限りのことで生きている。辛いことや身体的な要因から働きたくても働けない人たち。それでも、どうして生きようと模索をしている。片や、健康で何ら不自由の無い体をもっていても怠けて動かない人間もいる。守るべき家族や大切な人がいて、自分のことだけを考えて怠けて現実から目を背ける人間もいる。
今というのは、正に生きていく事が実に難儀だ。今日一日を無事に過ごし、ご飯を食べて暖かい布団で眠ることが出来れば、これぞこの苦境の中にあって「富」と言えるのではないだろうか。大金があれば困ることは無いだろう、苦しむこともないだろう。使い方や人や財産との付き合い方で、その価値観や環境というのは確かに変わる。しかし、平々凡々とした生活を崩さなければその大金で頭を悩ませることもないだろう。しかし、現代において目の前の今日明日を生きる金が何よりもの富と言えるのではないだろうか。
では、「名声」とはなんだろうか。これは歌手や俳優、スポーツ選手や作家や画家といった著名な人間のそれを指すのだろう。顔と名前が頭に浮かび一致し、それは不特定多数で、世代によらず国によらず多様な人や場所で知られる存在。しかし、これらも誰にでも同じように可能性はある。勝敗や未来というのは同じように開けている。開けては居るが、運や縁、環境や状況で掴めるかどうか道は別れる。
しかしながら、これも「富」同様だろう。SNSが明るい時代である現在の世の中では、様々なフィールドやツールが存在している。【YouTube】や【Instagram】、【Twitter】や【TikTok】など様々な環境が一個人が個人という「商品」を世界に発信できる。例えば、Twitterでは、私の相互フォロワー様のなかに絵師をされている方がいる。この方は最初はフォロワー数も二桁程度で、「いいね」の数もわずかだった。それが、二年経った今ではフォロワー数も「いいね」の数も万を超える。毎月のように何件も依頼を受けては活動している。親しくしていただいているが、気がついた時には雲の上の人になっていた。
様々な特技や趣味、あるいはスタイルなどで如何に自分という「個」を商材として扱えるか。そして、売り出していくか。もともと素晴らしい記述や才能の持ち主は昔から多くいたが、それを表に出すことが中々に難しかった。それが今では、「SNS」という宣伝ツールで発信をすることができる。もちろん、誰にでも様々なものを発信することは出来るが、結局のところは熱意や努力。探究心や向上心といった人一倍の気概が重要であることは言うまでもない。つまるところ「名声」というのは、実はそんなに遠い存在ではない。身近なことでいえば、勤務先で「仕事が出来る人」や「センスある」などの評判というのもひとつの名声だと言える。これが他の職場や環境などで吹聴されることで、知らぬところで自分自身の価値が高くなっている。私自身もそう感じているが、これをどう捉えるか次第だ。そんなものではダメなのだ! と否定して投げやるのか伸ばすのか、気持ち次第で財産にするも捨てるもできる。
しかしながら、そんな「金や呼ぶ声」よりも重要なものかがある。自分自身を思いやり、労い褒めたたえる心。誰かを想い、慈しむ心。ざっくり言えば愛情というものが人間には重要なのだ。愛する人おらずとも、自分が自分を案じてやる、想ってやることくらいできるだろう。否、出来なければならない。それをないがしろにした時、自らが自らの価値を捨て、苦しめ打ちのめすことになる。
長ったらしくここまで言葉を並べてきたが、まずは自分を思いやり支えてやらねばならない。そして、今日をという日に感謝をして一日を無駄に、蔑ろにしないよう生きるのだ。そうすることで、人生に価値が生まれ、自らもそこに価値や財産を見出すことが出来るのだ。
二十一歳の時分、共通の友人の紹介で知り合った相手と毎日毎晩連絡を取りあっていた。朝起きて挨拶のトークを送ると、返事が返ってくる。連絡を取りあって間もない頃というのは、お互いにぎこちなく何処か緊張しているのか遠慮しているのかよそよそしかった。次第に打ち解けていったことで、挨拶からたわいもない話をする仲になった。
まだ交際はしていなかった私たちも、その辺のカップルのようにお互いを想い合っていた。どちらも告白をするでもなく、ただただ行為を寄せていることを直接伝えては嬉しい気持ちになっていた。直接会うことは基本的にはなかったが、親しくなっていったことで、会いたいと思う気持ちが芽生えた。
五月半ばだっただろうか、シェアハウスをしていた私は二十二時を回った頃にアパートを出た。近所のミニストップに立ち寄って酒と夕飯を買って、アパート近くの植え込みの縁に腰掛けてスマホをポケットから取り出した。電話帳をスクロールして、いつもの連絡先をタップすればコール音が聞こえてくる。「もしもし」と嬉しそうな声が耳に心地よい。酒のプルタブを上げて小気味よい音を立てながら、その声に答えて大きくひと口流し込む。なんてことの無い会話を続けているうちにさらに夜が深くなっていく。パトロール中の警察官の職務質問に答えた後に、また話を再開する。すると今度の八月に実家に泊まりに来ないかとの誘いを受けるが、相手はなにも気にしていない素振り。お盆休みに泊まりに来て欲しいというが、実の所は両親や親戚にも「共通の友人の紹介で知り合った恋人が泊まりに来る」と吹聴していたのだという。そして、家族や親戚は歓迎しているというのだから驚きを隠せない。
何も気にすることなく、遊びに来て欲しいと嬉しそうに話す相手に勝手なことをしてくれるなと憤りを感じながら、やっと会えるのだなと胸が高鳴るのを感じた。
執筆中、お待ちくださいませ。
...執筆中だったのを忘れていた。はて?これは一体なにを書こうと思ったのやら。