わたしは視覚認識能力が弱い。小さい頃から、それこそ小学生の頃から目が悪かった。しかし、眼鏡を与えられたのは高校の時。更に、片目だけが悪く、眼鏡では補正しきれなかったためにコンタクトも使った。そのせいで眼のタンパク質濃度が濃くなり、三ヶ月に一度でいいタンパク除去薬剤をほぼ毎回使う羽目になった。今でも眼からドロドロと目ヤニが出る。
そんなわけで、わたしは危機感知は耳で行っていた。車の音、鳥の声、聴覚過敏がある分よく聞こえた。風の中で鳥が鳴いていても耳を澄ませば気づけた。
しかしうちの家系は老いが耳に来るらしい。すでに老眼で不自由している。これ以上感覚器官に来ないで欲しい。
【耳を澄ますと】
「暑いね」
「うん、暑い」
君と歩く川べりの小径。春は花粉をばら撒いて去ってしまった。暦と季節が一致しない、早すぎる夏。
「川のそばに今日も立てば何故か飛び込みたくなるよ靴を脱いでそこに揃えさあ飛び込もう」
「禁じられた遊び」の節で替え歌を歌う君。
「靴を揃えるのは縁起が良くないけど、こう暑いと川に飛び込みたくもなるね。気持ちよさそうだもん」
「じゃあ、飛び込んじゃおう」
二人で靴を脱いで揃えて置き、靴下も靴に押し込んで、ズボンの裾をたくし上げて川に入る。今日の遊びは二人だけの秘密だ。大人に言ったら怒られる。
【二人だけの秘密】
わたしは、「優しさ」には「厳しさ」が伴っていないといけない、といつからか思うようになっていた。
優しさだけでは甘やかし過ぎる。
厳しさだけでは窮屈過ぎる。
だから、人に優しくしようとは思うけれど、同時に厳しくあるべきところは締めようと思ってもいる。
その厳しさ故に嫌われることも多いのだけれど。
【優しさだけで、きっと】
わたしの頃にはなくて、最近はカラフルなもの。
それはランドセルである。今では中間色まで揃っていて、お好みのものを選ぶことができる。しかもジェンダーに左右されることも少ない(らしい)。
わたしの頃は男子が黒、女子が赤と決められていた。そして丈夫に作られたそれは、低学年の頃には重く、高学年になるとダサいという理由でいわゆる普通のオシャレなショルダーバッグにとって変わられていた。
わたしは六年生で卒業するまでランドセルを貫いたが、そんな人間はごく少数派で、下手すると学年でわたししかいなかった。でもわたしは、ランドセルを背負えるのは小学生の特権だと言い張って、くだらない信条を貫いたのであった。
【カラフル】
この世に楽園はあるのだろうか?
まず、楽園とは何だろうか。定義づけてみよう。
言葉の意味的には「苦しみや悩み、欠乏が一切なく、平和と幸福に満ち溢れた理想的な場所や状態を指す言葉」を楽園と呼ぶらしい。
では苦しみ、悩み、欠乏がなく、平和と幸福に満ち溢れるという状態はあり得るのか?
人間である以上、誰もが悩み、苦しみを持つ。欠乏もしばしばあるだろう。と考えると、「楽園」とは現世にはなく、死後にしかないかも知れないと言えよう。
【楽園】