ヤツらがやってくる季節が来てしまった。
そう、出身地は南関東の里山のそば。里山は遊び場で、友人(親に内緒)などと良く遊びにいったこともある。某市民の森の看板が立っていて、ハイキングコースになっていたり、天然の源氏蛍が見られる池があったりした。今では立ち入り禁止になってしまった高台から、遠くに霞む千葉や都心のビル街を眺めて話したこともある。
そこは森、あるのは木々。当時は車が少なかったせいか、モヤモヤと木々から風に乗って煙が上がっていても気にならなかった。無論、その正体は--。
--スギ花粉である。もっさりと風に撒かれていく中でわたしと友人は平然と語り合っていたのだ。
【風に乗って】
刹那とは、一瞬の出来事のこと。
だから創作で、正確にはアナログゲームのマイキャラとして、刹那と永遠(とわ)という二重人格の子を考えたことがある。
そこでもわかるが、刹那は人名に最近良く使われるなあと思う。昔ならすぐに天国に行きそうで忌避されていた名前だと思う。綺麗だけれど、美雪、沙雪なども儚く散りそうで、子供に名付けるのは避けられていた。
今やキラキラネームも横行していて、どんな名前だろうと子供につけてしまう時代である。わたしの小さい頃は、つけたい名前に「〜おじいちゃん、〜おばあちゃん」とつけてみて、おかしくない名前にしろと教わったものだが。時代はあっという間に変わっていく。
【刹那】
生きる意味ってなんだろう。
何でわたしを産んだの、って聞いたら、親は、出来ちゃったから産んだ、と答えた。父はどうして生きているの、と聞いたら、生まれちゃったから生きていると言われた。
そんなものなのかも知れない。
人は死して名を残すというけれど、わたしは残したくない。全ての人に忘れて欲しい。お墓もいらない。
産声は確かに、赤ちゃんが、全身全霊で生きたいと叫んでいる行為だと思う。でもその先に意味はあるのだろうか。わからない。そして物心つくと同時に嬰児期の記憶は消えてしまうのだ。
【生きる意味】
昔は性善説という概念を先に覚えていた。
でも、だんだん、性悪説のほうが正しいような気もしてきた。
人には良心というものがあって、それがいわば「神様」だと思った。人は邪悪に生まれてきて、欲しいものは欲しいし、したいことはしたい。欲望にまみれている。それを良心という「神様」がとどめるのではないかと考えたのだ。
そのうち良心ではなく、外的圧力が抑制しているのではと考えるようになったりもした。
まだわたしが小学生の頃の話である。
【善悪】
流星に願ったことがない。
そもそも流星が見られる空ではなかったし、見たとてその瞬間スッと消えてしまう。
きっと鈍臭いわたしには願う権利すらないのであろう。
【流れ星に願いを】