ぬえ

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12/15/2024, 1:16:02 PM

雪は一年を通して景色を最も変化させるものであるといえる。

夏に見える積乱雲は勢いと迫力があり、それはそれで衝撃をもたらすものであるが、何よりも遠く、空の領域での出来事だ。

夏の雲は、宗教画のように、濃淡があり、それこそ何者かが描いたかのような、どこか非現実的なもののように私には見える。

それに対し雪はどうだろうか。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」『雪国』

小説『雪国』の序文である。

どうだろう、辺り一面に広がる雪の景色が容易に想像できるではないか。

雪。四季のある日本に住んでいる者であれば誰もが体験する非日常感、どこか他の世界に舞い込んだかのような空気感を想像できるだろう。

実際、小説『雪国』でも、主人公の島村はとても冷めた性格であり、発言、行動ともに無責任である。
まるで、「俺はこの世界の住人ではない」とでも言ったような……。

そう。まさに雪の与える印象にそっくりだ。

私が『雪国』を読んだ当初の感想としては、主人公の島村があまりに冷めており、当事者意識の欠片もない薄情な人間だと思っていたが、今思えば、それは雪の与える非日常感も少なからず影響していたのかもしれない。

ギリシア神話において、「冬」は豊穣神デメテルの悲しみの結果として生まれた季節だという逸話がある。

冬の間は娘のペルセポネが冥界の世界への行ってしまい、その間、デメテルは悲しみ続けているという。
豊穣神の悲嘆により、草木は枯れ、世界は純白に包まれる。

何が言いたいのだろう。

……ペダンティックに語りたかっただけだな。

今年も雪は降るのだろう。

初雪は下宿先で迎えることになるのだろう。

「雪が降っている」と家族に報告することなく過ごす冬。

……そういえば、人間のアイデンティティというものはごくごくささいな物に支えられているという。

「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる人がいること。
毎日のご飯を作ってくれる人がいること。
夕飯を共に食べたり、一緒にこたつに入って温まったり……

挙げ始めたらきりがない。

着地点が見えない。ここで終わろう。

10/30/2024, 8:52:43 AM

もう一つの物語。

この言葉の意味は、「自分のIF」だろうか。

あのとき、あの選択をしていたら……

この手を話をするとき「あのとき、あの選択をしていたから今の自分があり、その選択を後悔しているのだ」
といったことはよくある。

まあ、実際その通りなのだ。

8/18/2024, 1:33:02 PM

鏡に向かい、「お前は誰だ」と毎日言い続けると狂気に取り憑かれるという噂を聞いたことがある。

なんとなく察しは付く。脳内の抱く自己イメージと現実の自己の乖離がアイデンティティの崩壊を生む、といった所か。

だが、鏡に向かいそのようなことを言わなくとも自分と言う存在は毎日変わり続けているはずである。

「誰だ」と言われたら誰だって名前を答える。

自分という存在はどこまでいっても曖昧なものだ。

他者に観測されない限り自分は存在しないという考えや、世界には私しか意識がなく、他人などは所詮私の意識が形作っているだけだという考えもある。

「誰だ」と問われたら肩書と名前を答えるか。

肩書は変わるが、名前は変わらない。

ややこしい言い方になるが、名前が私という存在を構成する表面の部分だとすると、肩書はその中身と言える。

「誰だ」と鏡に問いかけ続けて狂気に取り憑かれる者は、自己が変化しないものであると信じているのではなかろうか。

そうとしか思えない。自己が変わるものだと信じてるいれば、自分が何者でもないことに気づいているはずだから。

少し話は変わるが、この『書いて』というアプリ上での著者としての私は「私」と一致しているだろうか。

どこの誰が書いたかも分からないものをどこの誰かも知らない人が「いいね」を押している。もしかしたら、お気に入り登録をしている人もいるかもしれない。

誰に向けた文章なのかも分からない。目的すら定かではない。

極限まで薄めた『note』だろうか?それとも他者へ向けられた日記か。

私はお題を見て何か思い付いたら書くが、自己評価でいまいちだったら投稿しない。

日記だったらそのまま残っていたであろう文章は、この電子世界では文字通り無に帰してしまう。

そういう意味では日記ではない。日記ならば良いものを書こうという変なプライドなど湧いては来ないから。

こんな極限まで薄めたsnsでも他者評価のことを考えるとは、自意識過剰の極みだな。

私には書きたいという欲はあるが、題材がなければ書けない。

他者からの批評も浴びたいが、どこの誰かも分からない者の評価を素直に受け容れる程私の心は広くない。

不都合な生き物として生まれ落ちてしまったな。

本の中で「君は」とか「あなたは」などと書いてあると著者に呼び掛けられたようで私は毎回ビクっとしてしまう。

読者としての自分という存在が明確になることに対する反抗心がなぜだかある。

その理由は、蓋し筆者と読者の、これまで保たれていた対等性というものが読者を名指しした時点で消失するからか。

筆者が一方的に語ることしかできないのに「あなたは」とか「読者の方」などと呼称する。

ネット上のレスバで長い間返信が無いと「お前は逃げた」と勝ち誇る。それに似た不快感だろうか。

私が見下されたくないだけなのだと思うが、嫌悪は消えない。

実際筆者は読者に対して呼びかけをする必要はないように思えるので私が悪いと思ってはいないが。

思うがままに文を書いてしまったな。

このように自己の奔流を感じている時に書く愉しさを覚えるから、まあ良いのだが。

7/24/2024, 11:45:23 PM

友情と聞くと、武者小路実篤の『友情』を思い出す。

確か、男の友人同士で同じ女を愛してしまい、苦悩する話であったと思う。

私は友人が多い方ではないので私自身に絡めた友情に関する話をすることはいささか難しい。

そこで、ここでは友情についての話を進めていきたい。

友情とは、友愛として解釈すると私的には分かりやすい。

愛の定義として私がしっくりきているのは「対象との関係の持続」である。

即ち、友情とはその友人との関係を大切にしていきたいという気持ちなのだ。

私が語れるのはこのくらい。

7/22/2024, 8:20:46 AM

「欲しいものが無い」ということで、常に満ち足りているという自分を他人に向けて演出したり、「時間が欲しい」などと言って忙しいアピールをしていたりと、私が欲しかったものはそんなものではないことに今改めて考えてみるとそう気付いた。

他者からの賞賛。

言葉にしてみれば、こんなものだったのだろう。

そんな形のない欲しいものを求めている間に、自分が具体的に何を欲しているのか分からなくなってしまったような気もする。

そもそも、Z世代の特徴として形のある物を欲しがらないという特徴があるらしく、私も漏れなくそうであるという可能性もあるが。

まあ、お題に答えるのなら、今の私に欲しいものはない。

これまでの見せかけの願望ではなく、私はもう欲しいものが手に入っているからそう言っているだけだ。

それに、常に足りない、満ち足りないと思うよりは満ち足りていると思ったほうが……いや、これは正当化だろうか。

ふと思ったのだが、欲しいものというのはこれまであったものが無くなって初めて欲しいと思うのではないだろうか。

手に入れたことで明確な何かが得られる確信がなければ欲しいとは思わない。少なくとも私はそうだ、




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