君からの
LINE期待し
待つ夜明け
前向きな
君の言葉を
待ち焦がれ
思いを馳せる
君との未来
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君からのLINE
夢はあるかと聞かれたら、もう叶えている。
そう、答えられるのを最近知った。
「頭の中にある物を現実に生み出したらね、それはもう夢を叶えたことになるの。欲しい物を手にすることも夢のひとつなのだから、物を生み出すことも立派な夢なのよ」
休みの日の長閑な昼下がり。
お茶を片手に母親と談笑している時、この言葉をもらった。
これを聞いた時、私は目からウロコが落ちる思いがした。
自覚は一切なかったのだが──
どうやら私は、毎夜夢を叶えていたらしい。
夢を叶えることはもっと大変で、苦労がつきものと思っていた。
色んな困難や難解なものを克服する為に必死に努力して、夢や信念にしがみつくことが、夢を叶えることだと思っていた。
ただ好きでやっていたことが、まさか夢を叶えていることになっているとは──驚きだ。
「例えば、作品とも呼べないラクガキとかでもそうなのかな?」
好奇心から母親に尋ねると
「頭の中にあるものを現実化させているのだから、それもそう。お料理だって、お掃除だってそうなのよ。頭の中のイメージを現実にするのだから、立派に夢を叶えているの」と母親は言った。
夢というのは、案外ハードルが低いらしい。
そう思うと、肩の力が抜けていくのを感じた。
自分らしくいるだけで、もう夢は叶っているし、叶える力がある。
こんなにありがたいことはない。
夢というのは、しっかり考えなくてはいけないもので、将来の道しるべになる重要なものという印象があった。
けれど、母親の言を信じるならば、叶えられる夢は沢山ある。
故に夢を叶える力は誰にでもあって──それが大きい夢か、小さい夢かだけの違いでしかない。
ベイビーステップを重ねて自信をつけ、大きな夢に挑んだって良いのだ。
それに、この世界にある──人が作り出した──物は、誰かの夢が実現したもの。そう思うと心が優しくなり、愛おしい気持ちが湧いてくる。
「実現するまで頑張ったんだろうな」
「夢が叶ったんだね、おめでとう」
「作ってくれてありがとう」
想像すればするほど、世界には光が沢山あるように見えてくる。
これは幸せなことではないだろうか?
そう思うと心が軽くなり、ワクワクしてきた。
この命が燃え尽きるまで、どれくらいの夢を叶えることが出来るだろうか。
母親の理屈を元にすれば、きっと万ではきかないくらい、夢は叶えられる。
「夢」の億万長者も夢じゃない?
何だか、楽しくなってきてしまった。
穏やかな思慮深い心も好きだけど、こういう楽天的な心も私は好きだ。
これからも心が望むままに、軽やかに夢を叶えていこう。
自分らしくで良いのなら、これほど気楽なものはない。
楽しくて明るい道を行こう。
そうすればきっと、楽しいことと出会えるから。
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命が燃え尽きるまで
何かが起こりそうな夜明け前。
されど、心は静か。
穏やかな優しい気持ちに満ちている。
さあ、扉を開けて
黄金の夜明けを見に行こう。
新しい一日を祝福するために。
黄金の光に包まれたなら、
もう、迷うことはない。
心が望む行きたい場所へ行き
会いたい人に会いに行こう。
本気の恋。
人を好きになるまでの流れを整理すると、下記のようになる。
気になる人を見つける
↓
相手がどんな人なのか興味が湧く
相手が何を考えているのか知りたがる
相手とコミュニケーションを取りたくなる
↓
行動
↓
相手との類似性や共通点、相違点を見つける
↑
ここで好きになるか、嫌いになるかの分岐点が発生する。
分岐点で暖かい情ばかりが生まれると、不思議なことが起きる。
共通点を見つけて嬉しくなる事によって起こるバグなのだろうか。
興味や好奇心から始まったことなのに、「興味」が「恋」に成り変わる時がある。
これをバグと捉えるか、正常反応と捉えるのか、その答えはわからない。
しかし、恋というものが生まれると人はバグを起こす。
勇気を出して行動したかと思うと、ちょっとしたことで凹んだり──。
相手と話すだけで嬉しいのに、急に不安になったり──。
「どうして傍に居てくれるの?」と聞きたいのに、臆病になったり──。
相手の優しさに胸が温かくなって、子どものように泣きじゃくったり──。
相手と自分が釣り合っていないように感じて申し訳なく思ったり──。
相手を思っての行動が空回りしたり──。
挙げていったらキリがない。
暖かい愛情の光の中にあるのに、胸の影が強く現れて、自身をコントロール出来なくなってしまう。
端から見れば「何してるの?」と言われるような事でも、当人はクソ真面目であったりするのだから、なんと言ったら良いのだか。
空回りしている当人は、「愛情」の出力が下手になっていることにも気がつかない。
恋愛は脳のバグという謂れは、多分この辺りから来ているのだろう。
恋と脳のバグが解けたところで、肝心の「本気の恋」についてだが──私はそれを「愛」と呼ぶのだと思う。
恋の後に愛が生まれるから「恋愛」と書くのだとしたら、本気の恋の正体は「愛」だ。
「生きてくれているだけで嬉しい」と相手に対して思う時、それはきっと自身の中で愛が生まれているのだと思う。
それに気が付き、心の中心に愛を据えたなら、もう胸の影を恐れることはない。
愛によって影は癒され、消えていくのだから。
その先に待つさらなる光こそ、本当の愛なのかもしれない。
今年のカレンダーも残り4枚だ。
大人になると1年が本当に早い。
光陰矢の如しというが、年々その矢が早くなっていく。最早、姿を捉えるのが難しい。
今こうしている間にも、空をかっ飛んでいく矢に問いたい。
「そんなに急いでどこへ行く?」
そう口に出そうとした瞬間、もう姿がない。
なんと早いことだろうか。
矢から答えは得られなかったが、飛んでいく姿は「時に身を任せて進むだけさ」と言っているように見えた。
見えなくなった後ろ姿に向かって更に問う。
「君の意思はないのかい?」
そう問うと「知らないものを知る為に行くのさ」という言葉がどこからか届いた。
なるほど、矢というのは好奇心が旺盛らしい。
楽しそうなら結構なことだ。
一方、「時」というのは不思議なものだ。
辛い時や何かを待っている時、意地悪なくらい時というのは過ぎない。そのくせ、楽しい時は秒で過ぎていく。
かと思えば、自然の中で過ごしている時などは、ゆっくりと流れてみせる。まるで、この世界を堪能して欲しいとでも言うように、優しく寄り添ってくる。
意地悪なのか、優しいのか。
それともそれを知覚する人側に要因があるのか──
凡人には計り知れない。
こうしている間にも、時は進んでいく。
残りのカレンダーもあっという間に過ぎていくのだろう。
その中に、沢山の良い思い出が出来れば幸いである。
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カレンダー