真夜中=夜がいちばんふけた時。
深夜。
深夜=夜更け。深更。真夜中。
夜更け=夜がふけること。また、その時分。深夜
夜の、非常に遅い時。
深更=夜ふけ。深夜。真夜中。
辞書でぐるぐるたらい回しにされるのも久しぶりだ。
ネット辞書によると
真夜中の語は深夜(しんや)、深更(しんこう)、夜半(やはん)(日本の気象庁では「夜半」を「0時の前後それぞれ30分間くらいを合わせた1時間くらい。」 としている。) と同様に夜深くの時間帯を幅広く指す場合があり、曖昧である。
改めて手元の辞書で夜半を調べると、
夜半=よわ。夜中。真夜中。
やはり手元の辞書では、時間の詳細は載っていなかった。
曖昧なものは曖昧なまま。
敢えて定義しないというのは、想像力や言葉の滋味ともいうべきものが、そこにあるからだろうか。
この様な幅の豊かさがあるから言葉は楽しく、同時に難しい。
愛があれば何でもできる?
ある程度のことは、愛ゆえに出来るかもしれない。
しかし、死者蘇生や時を超えて昔の推しに会いに行く等、できない事も多々ある。
愛があれば、限界を超えることはできる。一方で、ある時点の限界は超えられない。
それが自然の摂理なのかは不明だが、制御点のようなものが存在している限り、「何でも」というのは難しいことなのかもしれない。
後悔…。
何かをしても後悔するし、
何かをしなくても後悔する。
人生と後悔は、切り離せない関係なのだろう。
だから、そういうものとして受け入れる、
許容が肝心なのかもしれない。
空は快晴のお出かけ日和。
さて、何処まで行きましょうか?
あの鉄塔の向こう?
あの遠くに見える紫峰の麓?
今日はごちゃごちゃとした思考を御休みさせて
風吹くままに風任せ
心赴くままの運に身を任せ
気まぐれなお出かけと洒落込みましょうか。
失われた時間…(゜゜)
失われた=「失う」の受け身。
あったものが無くなること。
特に自分が手を下したのではく、
他の要因によってなくなってしまったさま。
何かあったかなぁ…。
…。
…あぁ、あった。
ミヒャエル・エンデの「モモ」。
時間泥棒から時間を取り戻す物語だ。
葉巻男たちによって奪われ、失われた時間はあるので、テーマからズレていないはず…多分。
後は、「アンチモネシア」。
亡国の歌だからテーマからはズレていない…はず。
二つとも壮大で、好きな作品だ。
「モモ」
モモは児童書と思って舐めてはいけない。大人こそ読むべき物語だと思っている。
コスパ、タイパに追われる現代、時間泥棒はさぞかし大喜びだろう。
時間節約こそ、本当に「良い暮らし」?「将来のためになる」?
本当の意味での生きることとは何かをモモが教えてくれる。
忙しい時にこそ読みたい物語だ。
「アンチモネシア」
夜深くにヘッドホンで聞くと、遠くへトリップ出来る音楽。
機械音が多く使われているのに、どこか懐かしく、物悲しい旋律。
寄りそうような優しい歌声に、伝説の国へ思いを馳せてしまう。
まだ、在る。まだ、居る。と答えるのは…この音楽に触れた人達なのだろう。