もう一つの物語。
例えば、テスト前にちゃんと勉強した私の物語。
例えば、あの時に謝れた私の物語。
例えば、昨夜潰した蚊の物語。
今朝割った卵のひよこの物語。
電車に飛び出したあの人の物語。
あったはずの物語。私が書き損じた物語。
もう一つの物語。
例えば、補修の時間で仲良くなった友達との物語。
例えば、謝れなかった後悔を覚えている物語。
例えば、昨夜殺し損ねた蚊の物語。
朝食に目玉焼きを食べた私の物語。
ホームに花束を添えて生きる私の物語。
なかったはずの物語。私が書き連ねた物語。
どちらも、等しく。
「もう一つの物語」 白米おこめ
帰宅途中の水たまりを踏んだら
そのまま沈んで世界から私がいなくなり
暗がりの中でただ遠くなってゆく信号の揺らぎをみている。
「暗がりの中で」白米おこめ
ある日、夕食の終わり時。
お皿洗いの最中に、紅茶の香りが鼻をくすぐり、
私はふと窓の外を見た。
窓の外から、風に乗ってその香りがした。
かちゃりと、洗い流した真白い皿を立てかけて。
泡のついたものは放ったまま、
ベランダのテラスドアに手をかけた。
からからと外へ出ると、ふわりと。
紅茶の香りが、夜の冷えた空気に纏っている。
お隣さんの電気は消えていた。
下を覗き込んでも、ただ黙った草木が揺らぐだけ。
ここにあるのは、遠くのお月様と、小さな星々。
私はふと気になって、部屋の奥の、引き出しの更に奥から、
埃を被った望遠鏡を取り出した。
軽く払って、狭いベランダで三脚を立てて。
屈んでレンズを覗き込んで、月を探す。
光のある方へ。上へ、上へ。
ぱっと目の前が白く光って、ピントを合わせると。
月の光だと思ったものは、
ふわふわとした毛並みに変わって。
そう、一匹のうさぎが、紅茶を飲んでいた。
…と、思ったが、もう一匹うさぎがいた。
何やら慌てて飛び回っている。
布巾を持って、小さなクレーターの周りを
あちこち拭いている。
「零したのかな」
ああ、だから。
「だから紅茶の香りがするのね」
『紅茶の香り』白米おこめ(改変)
貴方の声に、恋をした。
始まりはきっとそうだった。
優しくて落ち着く、貴方の声が好き。
表情や行動が冷たくたって、
声を聞けば照れ隠しだとすぐに分かる声が。
私、貴方の声が聞きたくて、ずっと隣で過ごしていた。
そうしたら、貴方と手を繋いで過ごす時間が好きになった。
貴方の声が聞きたくて、貴方の部屋に押しかけて。
そうしたら、貴方と一緒に暮らすことになった。
私、貴方とずっと一緒に居たいと思ったの。
時が経って、私と貴方の手が、皺のせいで
ぴったりと重ならなくなっても。
貴方に会うために、
病室の番号を覚えなければならなくなっても。
たとえ、吐く声が言葉を紡げずに、
唇さえも酸素マスクに覆われようとも。
私達、声が枯れるまで、愛し続けよう。
「声が枯れるまで」 白米おこめ(遅刻)
文章の始まりはいつも、一マス空ける。
それって、何でだろう。
ちょっと、奥ゆかしさを出すというか。
一歩引くことで「今から始まりますよ」っていうのを
伝えてるのかも。
読んでいる人が、読むぞ、っていう切り替えができるように
っていう、配慮なのかも。
調べれば出てくるのかもしれないけど、
まずは自分で勝手に考えてみる。
絶対に違うだろう、絵本の中のような理由。
それを想像できる自分の単語の蓄積。
なんだかんだ、まぁ、悪くないと思うんだ。
「始まりはいつも」 白米おこめ