「ねぇ、ここ行きたい!」
ソファーの左隣で僕に体を寄せ、スマホ画面を見せてきた君。君の髪の毛はくすぐったかったけれど、僕は我慢しながら答えた。
「いいね、そこにしよう」
ここから車で1時間半の場所にある水族館。それが僕たちの決めた目的地だった。
同棲生活8ヶ月目。僕たちはジャージとパーカーで過ごすことが増えていた。今更おしゃれなんかしなくてもいいのに、君は服選びに1時間もかかったよね。
鏡の前でハンガー付きの服を体に当てながら、
「これどう?似合ってる?」
「いいと思うよ」
「うーん、でもなぁ…」
僕に聞いておきながら、君ってば、色がどうとか形がどうとかぶつぶつ言って、一向に決められなかった。
「あれ?さっき決めたんじゃなかった?」
「着て見たらやっぱり違ったの」
あの時、本当は内心ちょっと鬱陶しいくらいだったけど……いや、本当にちょっとだけだから、怒らないで。
それからメイクやら髪の毛のセットやらを終えた君と一緒に、僕は玄関を出た。
「今日香水つけたの?」
「あったり〜!さっすが気づくの早いね、ほめてつかわす」
そんな会話を交わしながら。
……ソファーに座り、膝を抱え、頬を涙が伝うのを僕は感じた。
水族館、連れて行けなくてごめん、葵。
もう、彼女はこの世にいない。
あの日、葵を乗せて運転していた僕の車は、事故にあった。信号待ちしている間に、別の車に突っ込まれたのだった。
事故の瞬間のことは、あまり思いだしたくない。後悔と、恨みと、苦しみが、僕を一気に襲うから。
その代わりにこうしてぼんやりと部屋の中を見渡すようにしている。そうすれば、君の姿が、声がそこに現れる。
ごめん、葵。
だけどそんな僕の声に応えてくれる君はいない。
…僕は慌てて涙を拭い、再び、かわいい彼女との記憶を部屋の中から探し出すことに集中し直すのだった。
(お題 : 君の声がする)
宝石箱の中じゃなくて
砂利道で見つけた宝物
指先でつついたときは
ただの石ころだと思ってたけど
つまんでみたら案外綺麗で
握ってみたら離したくなくなった
だけどカラスが鳴いている
もう、お家へ帰らなきゃ
本当は持って帰りたいけど
この砂利道はみんなのもの
一つだけくすねて自分のものにするのは許されない
また明日ね、ぼくの宝物さん
ぼくがやって来るのを待っていてくれますように
手を握るとか
肩を寄せるとか
そうしてそっと伝えられたら
あなたが大切と伝えられたら
だけどその手もその肩も
私が触れられる距離にはない
同じで違う世界のあなたへ
私の想いは届いていますか
(お題 : そっと伝えたい)
有名大学に合格し、バリバリと働き、好きな人と結婚し、大家族に囲まれて、笑顔が絶えない生活。
そんなあったかもしれない世界線の出来事が、
体験した事実のように鮮明に浮かぶ。
その勝ち組の〝私〟が、こちらを嘲笑った。
グッと胸が痛んだ。
もっと真面目に勉強していれば、もっと就活を頑張っていれば、もっとうまく恋をしていれば、もっと、もっと……。
しかしふと、問いが生まれる。
(ねぇ、本当にその未来の記憶は、最高の幸せと言えるの?)
未来の予測は、過去の経験から得た情報の集合体でしかない。しかし私の経験なんて、たった数十年のものでしかない。世の中には、私の知らないことが山ほどある。
この未来の記憶は、所詮今の私が思い描ける程度の、ちっぽけな幸せだ。
私が成長を諦めない限り、さらに素晴らしい未来へ行ける可能性があるということではないか。
(そう思わない?)
〝私〟は、もう笑っていない。
唇を噛み、こちらを睨んでいた。
──嫉妬。
いくらでも可能性が残されている若者に、嫉妬しているのだ。
(ええ、私はこの〝私〟以上に幸せになってやりますとも)
〝私〟の頬を伝う悔し涙を最後に、未来の記憶は雲散した。代わりにそこにはまっさらな、白紙の明日が広がっているのだった。
スプーン1杯の笑顔
バケツ1杯の涙
怒り少々
喜び1パック
それらを混ぜて煮込んで焼いたのがワタシ
…といっても信じてもらえないでしょう。
人間の定義する『命が宿るもの』に、ワタシは含まれていませんから。こうして心があるというのに。