小さかった子らの顔。
毎日毎日いろんな子どもたちの顔を目にする度に、小さかった子らの顔を思い出す。
大人の都合ばかりを押し付けて来た。
子らの笑顔を見たいという思いとは裏腹な生活を、
我が子たちは一生懸命生きて来てくれた。
今、目の前に居る子らは立派な一体の大人で、
あの頃の愛くるしい子どもじゃない。
同じ人間なのに、あの頃の子どもたちはどこへ行ってしまったんだろうって切なくなる。
大人になった子どもたちは。
彼らなりにできることをし、
自分たちの世界を持ち、
好きに暮らして生活してくれている。
それなりに自立した人間になってくれた子どもたちに、
私はありがとうしか出てこない。
あの頃の子らの顔を
私は最後の時まで忘れない。
嬉しさと寂しさと
悲しさとありがとうと…
そういうたくさんの氣持ちをいっぺんに湧かせてくれるあの顔は、
心に大きく大きく飾ってある。
私の中の宝物。
白髪の美しい女性になりたい。
凛と一段上に立った、
ちゃかちゃかした人間関係とかおしゃれとかグルメとかとは違う老女となりたい。
酸いも甘いも噛み分けた
穏やかな生き物として美しくありたい。
私はそれに近づけているのかな?
歳は半世紀分重ねた。
でも私はまだ、渦巻いた現世にどっぷり浸かってる。
来年にはいよいよ白髪が生えてくるかもしれないと怯えているし、
大好きだった服が似合わなくなって来た姿にショックを受ける。
もっともっと、恵まれた今をしっかり楽しんで生きようよ。
一日一生。
寝るまでの間だけを笑って呼吸し続けたら、
苦しいことももう終わり。
翌日はただただ新しい自分ってだけだ。
おはよう、一番若い私
っていう毎日を重ねよう。
そうして一年後。
今日の自分を褒めてあげよう。
幸せな自分として。
遠過ぎる幼稚園児だった頃、
同じ園児を好きになったと記憶する。
母には「あなたは草刈正雄が好きだったのよ」と言われたこともある。
あの頃は、好きなのに喧嘩をするとか分からなかった。
好きな人がトイレに行くとか想像したくなかった。
食べる行為を見られるのさえ恥ずかしかった。
大きくなったら、お母さんと離れて暮らすのかなあと考えては寂しさで枕を濡らしていた。
豆電球がだんだん涙で滲んで来て
すごくすごく寂しくなった。
45年経った今は、全部ない。見事にない。
同じ私なのにまるで無い。
あぁそうか。
先を案じる時間って無駄なんだな。
心配は備えの材料にする為にあるもので、
そこで辛くなるものではない。
今一度それを知る。
ニュースやSNSに囚われるな。
意味がないから。
ちなみに。
自分が草刈正雄を好きだったことすら覚えていない。
時々TVに出ている彼を目にすると
母の言葉を思い出す。
なのに綺麗さっぱり覚えていない。
私の初恋は、どうやら浅いらしい。
今の世界なんてそんなもの。
人間が明日世界が終わると思っていないだけ。
人間がいなかった時には50メーターくらいの恐竜が生きてたという。
私が踏んでるこの地を
そういう生き物たちがずうっと前に走っていたそうだけれども。
あの時は終わった。どんな時も終わる。
夜、寝てしまうまでが『私』。
だから不安に囚われ続けないで、
今 目の前
を大事に生きるに徹しよう。
いっときの感情よりも
後味の良い言動を選んで
幸せに寝付けるように。
私が一番大切にし続けなければならないもの。
それしか無いもの。
それは私の身体という入れ物。
私が最初に出逢うもの。
私が一生懸命守らなくてはならないもの。
その身体を通して人生のパートナーと出逢う。
たとえ病める時が来たとしても
幸せに向かう支軸を忘れずに。
感情を超えて生きましょう。