「あなたは誰?」
「誰でもない」
「あなたはどこにいる?」
「どこにも」
「いつからいるの?」
「いつでも。今までもこれからも」
「どうやって?」
「ここに在ることによって」
「あなたは何?」
「あなたは何?」
「あなたは?」
「あなたは?」
「…………」
「あなたは誰?」
月に一度便りを出すと約束した。
どれほど登ってきただろうか、依然として塔の頂上は見えない。壁の書架から本を一冊手に取る。目の覚めるような真紅の装丁、この世のものではないほどに白い頁。浮き出た文字を指でなぞる。
『富のない都市、兵士のいない要塞、花のない草原、葉のない木──』
頁のない本を想像する。空のコンテクスト、読むことのできない行間。印刷されることのなかった──あるいは書かれることのなかった原稿。
塔の上層へ進むにつれ、壁の本の内容は詳らかになっていくようだった。密とした語法、冗長な語彙。かつて下層にあった散文の真空はここには見つけられない。
"全ての"情報を伝えるには言語の進化が必要だった。筆者の心音、潜在意識までもが"私のいるこの現在"では伝えられる。
胸元から紙と万年筆を取り出す。これは塔の一階で待つ男から託されたものだ。インクはいつまで持つだろうか? それまでに最果てにたどり着けるだろうか?
『私は今、P621階層目まで来た。まだ先は見えない。食糧は尽きた。でも、どうやら平気なんだ。ここでは読むことと食事をすることは同じらしい。君にこの手紙が届く頃には、私は身体すら必要としなくなっているだろう』
紙片を翅を広げた蝶の形に千切る。歪な対称の魂、それが相応しい。
吹き抜けから下層部へ便りを落とした。深い霧に呑まれる、そのまま消えてしまえばいい。
君の胸の星が煌めく。弱々しくも揺らめいて、これが最後の光だった
明けない夜に呑まれてどれほど経っただろうか? 日も月も無い世界で人は時を測れない。時という概念もいずれ消えてしまうだろう。
止まった世界で君だけが歌いつづけた。恋の詩だったのか、この世を呪う詩だったのか、僕にはもう判らない。時は流れず、線は点となる。夜に響く音はなかった。
ただひとつ、星が輝くのが見える。触れることはできない。
「時間よ止まれ」
「……もう少し良い言い方はない?」
「それってどんな?」
「ファウストが言った台詞があるんだけど、それがさ、私の読んだ訳では『時よとどまれ、お前は実に美しい』ってなってた、確か。そんな感じの」
「誰だっけそれ?」
「よく憶えてないけど、表紙の絵はバッハみたいな顔してた気がする」
「音楽家なら時も止めたくなるよね」
「止まった時間のなかでも音は奏でられる?」
「バッハなら、ね」
君の声がする。
スクランブル交差点の真ん中まで来たところで、ある種の既視感が通り抜けていった。
振り返ると、人の波が押し寄せる。皆一様に顔がなかった。
僕の記憶のなかの君の顔は霞がかっている。あるいは、ここにいる人々と同じく君にも顔がなかったようにも思う。
顔のない人はどうやって見つけてもらうのだろう? この世の服は全て同じ型で作られているのに。
原型に交わる道はない。不備のない工場のように一定のラインを流れていく。
美しさとは均して整えたものらしい。熟練の職人が鉋をかけて作り上げた無疵の平面。それが現代では何にも勝る『善いもの』になった。
柔らかく削られた声が僕の耳に触れ、霧散する。
君の声がする。