『紅茶の香り』
鼻先に感じる、心地よい香り。
揺れるカーテンの隙間から入る暖かな日差し。
ゆったりと腰を掛け、右手にはティーカップを、
左手には分厚い本を。
昼下がり。
庭のマリーゴールドは鮮やかに色づき、
マスカットのような風味のダージリン。
スッと鼻に抜ける爽やかな口当たり。
紅茶の香りとともに、左手は忙しく頁を送る。
ふと、隙間から窓の外を見る。
もうこんなに時間が経っていたとは。
おやつの時間ですよと部屋の戸を叩く音がした。
『踊りませんか?』
紺藍の夜空に、
浮いた月。
天頂で、白く、淡く。
ルージュ・ドゥ・サンのドレスに身を包み、
耳の上のあたりで結われた髪に、
刺された薔薇の髪飾り。
ノワール・ドゥ・シャルボンの背広に身を包み、
目の元まで下ろした髪に、
すらりと伸びた下半身。
まるで、今日の主役は彼女らなのだと、
言わんばかりに。
そう、物語る。
白手袋に包まれた手を、紳士に差し出し、
長手袋に包まれた手を、そっと置く。
踊りませんか?
そう誘ったように、
今宵は深く、長く。
耳から拾う音に、ひらりと。
明けない夜に、舞うように。
もう、今宵の主役は彼女らなのだと、
言わんばかりに。
『奇跡をもう一度』
私は目を閉じた。
その刹那。
唇に、
柔らかいそれに、そっと触れられた。
私は目を見開いた。
その刹那。
唇に、
その上に、その中に、
あたたかいそれに、口は、占拠された。
はじめての感覚。
私の頭は正しい判断をしてくれない。
また、
また、
その奇跡を、もう一度。
その奇跡を、軌跡として。
もう一度。
『たそがれ』
完全に日が沈む前の、
少しだけ、
太陽が斜めから強く光るとき、
黄昏時だと、教えてもらった。
なんだか、身体が重くて、
なんだか、帰るのが、寂しいような、
そんな時間。
橙色の光は、私の目や肌を刺す。
手を繋いで、少し上を見上げてみて、
にっこり笑うのを見て、私も笑う。
逆光で、あまり見えなかったけれど。
それでも、儚い記憶。
もう数十年も前のこと。
いわゆる父親という存在。
私の中に残る、唯一の、記憶。
だからいつもこの時間になると、思い出す。
たそがれ、の、記憶。
たそがれ どき の、
私の中で、永遠に生き続けて。
たそがれて。
「形の無いもの」
何故私がこう感じるのかは、わからない。
何故貴方に惹かれるのかは、わからない。
なんとなく、なんとなく。
ただ、
貴方の前では笑っていられる。
貴方といると楽しい気分になれる。
貴方にだけは、涙を見せたくない。
それでも貴方の涙を拭いたい。
これはただ、形の無いもの。
たぶんきっと、これが恋ってやつなのかな。
だからきっと、形無く、目に見えず、
心の中で震え続けるのかも、しれない。