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8/8/2025, 10:53:56 PM

夢じゃない

 クリスマスの昼休み、社長が社員全員に10万円を渡して言った。

「何でも好きに使っておいで。
ただし今から、一時間以内。
間に合わなければ返金。
領収書がなくても返金。
足りない分は自腹で払うこと」

 数年前、友人の会社であった夢のように羨ましい本当の話である。
 焦った友人はとりあえず近くのデパートに駆け込み、ブランドの財布と高級チョコレートと、プラチナのネックレスを買ったそうだ。
 「気に入ったものが買えなかった、ちょっと足りなくて自腹になった」
と悔しがっていたが、じゃあ私なら何に遣うかな……と考えると、なかなか良い案が思いつかない。


8/7/2025, 3:12:31 AM

またね

 夢のような美しい里に滞在していた。
里の人は皆親切で温かく、特に子供たちは良く懐いて、私の急な出立を寂しがってくれた。
「またね、きっとすぐ戻ってきてね」
見送る声に大きく手を振って応え、そして……。

 あなた!パパ!
耳元で大声がして、はっと目覚めるとそこは病室で、妻と娘が泣いていた。
 私は事故に遭い、ずっと意識を失っていたらしい。
もしやあの夢の里は、あの世だったのでは…と、今さらながら愕然とした。

 退院が決まり、喜ぶ家族を見るにつけ、一抹の不安が胸をよぎる。
あの時あの別れ際、私は里の子供たちに何と答えたのだろう。
「ああ、またね」
まさかそう言ってしまったのだろうか。
それがどうしても思い出せない。

8/6/2025, 5:17:26 AM

泡になりたい

 事件現場には人の形をした泡の塊が一つ、そして半狂乱になっている恋人らしき男性。
 この海の見える展望台で、大勢の人の目の前で、一人の女性が泡になって消えた。
 私も目撃者として警察に事情を聞かれた。

 ……いいえ、特に変わった感じはしませんでした。
途中で男の人が離れて飲み物を持って帰ってくる間も、その人はずっと海を見ていました。
それから急に足下から溶け出して……。

 その証言に嘘はない。
 ただ泡になる直前、風に乗って彼女の呟きが聞こえたことは、なぜか言えなかった。
「もういいかな」
ごく普通に淡々とした調子で彼女はそう言ったのだ。
 その時実は私も、同じことを考えていた。
投げやりでも何でもなく、ただふと酷く疲れた気がして、もうこの辺で十分かな……と思った。
 それくらい美しい海だった。

8/4/2025, 11:30:07 PM

ただいま、夏

 「行ってきます!」
ランドセルを背負って家を飛び出した僕は、お母さんの「飛び出しちゃダメよ!」の声を背中に聞いた。
そして通りをやって来た車にはねられた。
 9月1日、新学期の朝のことだ。

 今年の夏休みは最高だったんだ。
海へ行って、川でキャンプして、新しいゲームソフトを買ってもらって、花火大会にも、映画にも行った。
 そして9月、僕が事故に遭うはずの日、起きたらまた夏休みが始まっていた。

 「いいのよ」とお母さんは言う。
「何度でも繰り返すの、お母さんがそう願ったんだから」。
今日から夏休み、明日は海、来週はキャンプ。
 永遠の夏に、僕はまた帰る。

8/3/2025, 1:09:58 PM

ぬるい炭酸と無口な君

 突然現れた鎧兜の武者に、恐ろしい顔で詰め寄られた。
 “貴様、あの娘を真実愛しているか、否か?”

 ええと……困ったな。
真実ってその時のその人だけのものですよね。
状況変わったら本人でも分からなくなるし。
でも今僕は彼女が世界一大切で大好きで、それじゃダメですか?

 武者はむうと唸り、無言のまま鬼の形相で消えてゆく。
 ああびっくりした。
僕はぬるくなった炭酸を一気に飲み干し、冷や汗を拭った。
 あの答えで良かったのか悪かったのか、彼女の守護霊はえらく怖そうだ。

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