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7/7/2025, 1:11:52 AM

空恋

 今日は年に一度しか逢えない、空の恋人たちのための日。
だから今夜は会わないし、電話もLINEもしてこないでね。

 あなたが居なくて、悲しかったあの頃を私が忘れないように。
 私たちが幸せに慣れ切ってしまわないように。

7/6/2025, 1:40:26 AM

波音に耳を澄ませて

 耳鳴りがするの…と少女が受診にきた。
この前海へ行ってから、波の音がして止まらないんです。

 中耳を覗くと、なるほど波音の結晶が出来ている。
こんなに大きいのは珍しいから、よほど楽しい記憶だったのだなと私は思った。
「思い出の音に何度も何度も耳を澄ませると、結晶になってしまうことがあるので気をつけて下さいね」
 そう言うと、少女は顔を赤くして
「はい」と小声で答えた。

 「取った結晶を持って帰りますか?」
「お願いします」
 小ぶりのジップロックに、ビーズのような結晶を入れて渡すと、少女は大事そうに鞄に仕舞って帰って行った。
 夏になるとこういう患者さんが増えてくる。


7/5/2025, 12:30:55 AM

青い風

朝8時。
どこかの草原で生まれた風が、青い馬になってやって来た。
夏を連れてきたよ!とトロットで。

「間に合ってます」
お断りしたら、拗ねてもわっと熱気になった。
もう出て行く気はないみたい。

7/4/2025, 1:38:29 AM

遠くへ行きたい

 雨がようやく上がって虹がかかり、私は雨宿りの大木を離れて森の外へ出た。
 虹のふもとでは髭のレプラコーンが、せっせと壺を埋めている。
捕まえて中の金貨を奪おうか、いやいやすぐに立ち去ろう。
向こうの丘から、黒馬に変身したプーカが走って来るのが見えたから。


 ……と楽しく文字を打っていると、表で洗車していた夫が汗だくで戻ってきた。
私は急いで秘密の書くアプリを閉じる。
 エアコンの効いた部屋と冷たいパイナップルジュースに
「あー、家の中は天国だな」
と一瞬ため息をついた夫はすぐ
「今日はどこへドライブする?ちょっと遠出してみる?」
などと言う。
まあ、じっとしていられない人なのだ。
 この暑い中出かけなくても、充分心は遠くへ飛んでたんだけどな…と思いながら私は帽子を手に取る。
 どうせなら、人魚を探しに海まで行きますか。

6/30/2025, 4:25:53 AM

青く深く

 モーターボートのスピードが増して、ハーネスに付いたパラシュートが上昇してゆく。
私はボートの中で笑っている子供たちと、心配そうな夫に向かって手を振る。
 風を孕んでぐんぐん昇ってゆくこの感じ、空に吸い込まれそうな、海に飲み込まれそうな。
ちっぽけな個の自分が深い青色に溶けてしまうこの感覚を、私は以前にも知っていた。
 天の羽衣を失う前、空を飛べたずっと昔のことだ。

 家族旅行に来てパラセーリングをやってみたいと言ったら、夫はむきになって反対した。
不安げなその顔を見て初めて、私の羽衣を隠したのはこの人だったのではないかという気がした。
 でも、だったら、今さらどうする?
長年の嘘を許せる?

 空高く一人で浮かんでいても、もう私は完全な自由と孤独を感じることは出来ない。
愛情というロープに繋がれているからだ。
 答えはまだ先に、今はただゆらりと青に溶けていよう。

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