空恋
今日は年に一度しか逢えない、空の恋人たちのための日。
だから今夜は会わないし、電話もLINEもしてこないでね。
あなたが居なくて、悲しかったあの頃を私が忘れないように。
私たちが幸せに慣れ切ってしまわないように。
波音に耳を澄ませて
耳鳴りがするの…と少女が受診にきた。
この前海へ行ってから、波の音がして止まらないんです。
中耳を覗くと、なるほど波音の結晶が出来ている。
こんなに大きいのは珍しいから、よほど楽しい記憶だったのだなと私は思った。
「思い出の音に何度も何度も耳を澄ませると、結晶になってしまうことがあるので気をつけて下さいね」
そう言うと、少女は顔を赤くして
「はい」と小声で答えた。
「取った結晶を持って帰りますか?」
「お願いします」
小ぶりのジップロックに、ビーズのような結晶を入れて渡すと、少女は大事そうに鞄に仕舞って帰って行った。
夏になるとこういう患者さんが増えてくる。
青い風
朝8時。
どこかの草原で生まれた風が、青い馬になってやって来た。
夏を連れてきたよ!とトロットで。
「間に合ってます」
お断りしたら、拗ねてもわっと熱気になった。
もう出て行く気はないみたい。
遠くへ行きたい
雨がようやく上がって虹がかかり、私は雨宿りの大木を離れて森の外へ出た。
虹のふもとでは髭のレプラコーンが、せっせと壺を埋めている。
捕まえて中の金貨を奪おうか、いやいやすぐに立ち去ろう。
向こうの丘から、黒馬に変身したプーカが走って来るのが見えたから。
……と楽しく文字を打っていると、表で洗車していた夫が汗だくで戻ってきた。
私は急いで秘密の書くアプリを閉じる。
エアコンの効いた部屋と冷たいパイナップルジュースに
「あー、家の中は天国だな」
と一瞬ため息をついた夫はすぐ
「今日はどこへドライブする?ちょっと遠出してみる?」
などと言う。
まあ、じっとしていられない人なのだ。
この暑い中出かけなくても、充分心は遠くへ飛んでたんだけどな…と思いながら私は帽子を手に取る。
どうせなら、人魚を探しに海まで行きますか。
青く深く
モーターボートのスピードが増して、ハーネスに付いたパラシュートが上昇してゆく。
私はボートの中で笑っている子供たちと、心配そうな夫に向かって手を振る。
風を孕んでぐんぐん昇ってゆくこの感じ、空に吸い込まれそうな、海に飲み込まれそうな。
ちっぽけな個の自分が深い青色に溶けてしまうこの感覚を、私は以前にも知っていた。
天の羽衣を失う前、空を飛べたずっと昔のことだ。
家族旅行に来てパラセーリングをやってみたいと言ったら、夫はむきになって反対した。
不安げなその顔を見て初めて、私の羽衣を隠したのはこの人だったのではないかという気がした。
でも、だったら、今さらどうする?
長年の嘘を許せる?
空高く一人で浮かんでいても、もう私は完全な自由と孤独を感じることは出来ない。
愛情というロープに繋がれているからだ。
答えはまだ先に、今はただゆらりと青に溶けていよう。