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6/18/2025, 4:22:20 AM

届かないのに

 お皿に盛ったポテチを、これ見よがしに口に入れた。
妹がチラッとこちらを見て、ふて腐れたようにスマホへ目を戻す。
 さっきケンカをしたばかり。明らかにあっちの言い掛かりだし、これは私の買ったポテチだから、一枚だって妹にあげるつもりはない。

 すると目の前で、一掴み分のポテチがパッと消えた。
「あっ」と声を上げると、ソファーの陰で妹がにやにやしている。
さらにもう一掴み分。
 頭にきた私は、妹のスマホに意識を集中し、ポーンと天井近くまで持ち上げた。
妹が焦って手を伸ばしても、ちょうど手の届かない絶妙な高さで宙を漂わせる。
「ちょっと、やめてよ!」
「そっちが先に始めたんじゃん!」

 幼い頃から二人で競うように習得したサイコキネシス。
こんなことにしか、お互い使い道はないのだ。

6/15/2025, 4:05:30 PM

マグカップ

 キッチンに置かれた、不思議な古いマグカップ。
朝起きたら、金色のコンソメスープが湯気を立てている。
テレワーク中にふと見ると、熱いコーヒーが注がれている。
昼時にはチーズの溶けたミネストローネが、夜更けには蜂蜜入りのホットワインが独りでに現れる。

 ある日僕はそっと語りかけた。
「長い間心配かけてごめん。もういいんだよ、もう大丈夫。ちゃんと一人で生きて行くから、今まで本当にありがとう」
 心からそう告げると、亡き妻のお気に入りだったマグカップは、ほっとしたように静かに割れた。

6/14/2025, 7:23:08 AM

君だけのメロディ

 海辺の岩礁近くに、夭折した作曲家のアトリエがある。
昔私の弟子だった男で、その縁で遺作の整理を任された。
彼の才能を宝石のように慈しんでいたため、悲しみで私の作業は滞りがちだった。
 絶筆になったのは、タイトルのない未完の歌曲である。
譜を読んでみて驚いた。
恐ろしいほどの難曲で、およそ人間が歌える代物ではなかったのだ。
彼は一体、どういうつもりでこれを書いたのだろう。

 空が曇り風が吹いて、次第に海が荒れ始めた。
外を見ようと窓に近寄ると、今や珍しい翼を広げたセイレーンたちが、建物の周りを飛び交っている。
 突然扉が開け放たれて、きつい潮の匂いと共に一人のセイレーンが中へと入ってきた。
私に目をくれようともせず、鋭い爪で例の楽譜をかき集め、胸に抱いて去って行く。
 私は呆然と見送ることしか出来なかった。
あれはきっと、彼女のための曲だったからだ。

6/13/2025, 2:17:20 AM

I love

 長年連れ添った奥様に、普段口にしない愛を告白するサプライズ…的なテレビ番組を時々見かける。
そんな時、「ありがとう」と妻に言う男性がとても多い気がする。
 えーっ、それって愛の言葉?
私はいつもそう思ってしまう。
だって「ありがとう」の前には「○○してくれて」のフレーズがくるはずで、めちゃくちゃ受け身やん!と感じるのだ。
 ありがとうと告白されて、ときめく女性がいるだろうか。
「愛してます」はハードル高すぎでも、熟年夫婦ならそこは「今も大好きです」とか「大切です」とか言って欲しい。

 とはいえ自分も長年夫婦をやってみると、「ありがとう」は限りなく「I love you」に近い言葉なのだと分かる。
そこには積み重ねた年月が込められていて、好き嫌いだけでは言い尽くせない想いがある。
 「でもでもやっぱり、ありがとうはイヤ…」
 とりあえず夫に「アイラブユー」と真顔で言ってみたら、ご飯を喉に詰まらせていた。

6/11/2025, 9:28:20 PM

雨音に包まれて

 古い茅葺き屋根を、しとしと雨が濡らしています。
雨の日の遊びは、畳いっぱい広げた折り紙、おはじき、カルタにあやとり、紙ふうせん。

「やっと会えたね、フジエちゃん」
「待たせてごめんね、キミちゃん」
「ずっと忙しかったもんね」
「そう、学校へ行ったり、お婿さんが来たり、お母さんになったり、お祖母さんになったり、後は忘れちゃった」
「もうすっかりいいの」
「うん、すっかり」
「じゃあ、ずっとずっと遊べるね」

 小さな座敷わらしの女の子と、年を取って同じくらい小さくなったお婆さんが、楽しそうに笑っています。
優しい雨音に包まれて、遠い日の仲良し二人は、終わらない遊びを始めます。

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