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君だけのメロディ

 海辺の岩礁近くに、夭折した作曲家のアトリエがある。
昔私の弟子だった男で、その縁で遺作の整理を任された。
彼の才能を宝石のように慈しんでいたため、悲しみで私の作業は滞りがちだった。
 絶筆になったのは、タイトルのない未完の歌曲である。
譜を読んでみて驚いた。
恐ろしいほどの難曲で、およそ人間が歌える代物ではなかったのだ。
彼は一体、どういうつもりでこれを書いたのだろう。

 空が曇り風が吹いて、次第に海が荒れ始めた。
外を見ようと窓に近寄ると、今や珍しい翼を広げたセイレーンたちが、アトリエの周りを飛び交っている。
 突然扉が開け放たれて、きつい潮の匂いと共に一人のセイレーンが中へと入ってきた。
私に目をくれようともせず、鋭い爪で例の楽譜をかき集め、胸に抱いて去って行く。
 私は呆然と見送ることしか出来なかった。
あれはきっと、彼女のための曲だったからだ。

6/14/2025, 7:23:08 AM