ささやき
ウィスパーボイスが生理的にダメだ。
あの息もれ声を聞くとぞわぞわムズムズこそばゆく、身体を捩りたくなってしまう。
なのに今、俺の耳元で女の幽霊がずっと恨み言をささやいている。
『恨めしいわ…あいつが恨めしい…はあぁ…』
事故物件を承知で格安の部屋を借りたのは俺だし、幽霊の一人や二人どうってことはないのだが、このささやき声だけは我慢出来ない。
「おい!」
俺はついにブチギレた。
「こそばゆいんだよ耳が。もっと大きな声で言え!」
そう怒鳴ると、幽霊はびっくりして目を剥いた。
青白い顔がみるみる嫌悪感に歪み、両手で耳を塞いで俺を睨む。
『最低…大声出さないでよぉ…』
蚊の鳴くような声で吐き捨てて、幽霊は消えてしまった。
物語の始まり
彼女はパリコレモデルだ。
高い身長、すらりと長い手足、個性的な美貌、艶やかな黒髪。
ほとんど物を食べないのは、その素晴らしいスタイルを維持するための努力だと思われている。
「ところが逆なのよ」
こっそり彼女は打ち明けてくれた。
「モデルだから食べないんじゃなくて、食べなくて良いからモデルになったの」
人前ではね…と付け加えて、彼女はくるりと背を向ける。
そして頭の後ろにぱっくり開いたもう一つの口から、テーブルの料理をもりもり食べ始めた。
なるほど、モデルのサクセスストーリーの始まりは、二口女の昔話だったのね。
静かな情熱
職場にミステリアスな人がいる。
人当たりは良いし仕事も真面目だが、私生活が全然見えず、例えば休日に何をしているのかまるで想像がつかない。
でも何となく、いつも楽しそうに見える。
心にこっそり宝物を持っていそうで、充実した何かがあるんだろうな…と勝手に思っていた。
ある日その人を、ホームセンターで偶然見かけた。
物凄く熱心に、包丁を選んでいた。
声をかけるのが憚られるほど熱心に。
足元のカゴには大量のビニールテープとロープ。
きっと、お料理とDIYが趣味なんだ。
きっとそうだ…。
遠くの声
夜、ネット注文したスニーカーが届いた。
コンビニへ行くついでに試し履きしようと口笛を吹いて紐を通していると、どこか遠くで
「縁起が悪いよ!」
と聞こえた気がした。
そう言えば田舎の祖母が、夜に靴をおろすなとか口笛を吹くなとかとか言ってたっけ…あれって何だったんだろう?
気のせいかと思ってふと手を見ると、爪が結構伸びている。
爪切りでパチンとやったとたん
「夜の爪切りは縁起が悪い!」と再び、今度はハッキリと声が聞こえた。
…なんだこの幻聴は。
耳がどうかしたのか、それとも頭が…?
きっと疲れてるんだと思い、俺はコンビニを諦めてそのままベッドに潜り込んだ。
翌朝ニュースで知って驚いた。
昨夜コンビニ近くで通り魔事件があったらしい。
俺はあの、遠くからの声に助けられたんだろうか。
未来図
過去からやってきた、ティーンの私が顔をしかめている。
思い描いていた未来図と色々違ったらしい。
何でこんな田舎に住んでるの?ドラマみたいなマンションは?おしゃれな朝食は?エステは?ハイヒールは?カッコ良いダンナ様は?
私は納豆ご飯をごくんと飲み込み、インスタントコーヒーをポットに詰めて、スニーカーに足を突っ込む。
ごめんねー、何かこんな感じになっちゃったのよー。
怖い顔の昔の私にひらひらと手を振り、軽自動車に乗り込んでパート先へと急ぐ。
春の田舎道は生命に溢れて素敵だ。
今夜は夫の好きな、筍ご飯にしましょう。