#ススキ
月夜のススキヶ原に、足を踏み入れてはいけない。
背丈ほどもある、ススキの間から手招きしているのは、昔好きだった人?
いいえ、酷く傷つけた人。
白い穂の飛沫をあげて、ススキの海を渡ってくるのは、昔夢見た自由の船?
いいえ、怖くて乗らなかった船。
サヤサヤ響くススキの歌は、守らなかった約束。
遠い亡霊が私を責めるから、目を伏せて耳を塞いで、息を詰めて駆け抜ける。
#脳裏
…あの人に似てる。ほら、昔あのドラマに出てた女優さん。
…あれだろ。あいつが主演の、あのドラマ。
…そうそう、あのお母さん役の人。
最近私と夫の会話はこんな感じ。
言いたい女優さんの顔は、脳裏にはっきり浮かんでいるのに、名前が全然出てこない。
それでもなぜか伝わる、昭和生まれの夫婦です。
#意味がないこと
N県の山奥、廃神社の先に不思議な池がある。
底が見えるほど澄みきっているが、生物は棲みつかず、木葉一つ落ちていない。
まるで鏡のような静けさで、実際その池は神々の鏡なのだという。
近隣の八百万の神が日の出と共に現れ、己の姿を映して朝の身支度をするそうだ。
「だがその鏡を、人が覗いてはいけない」
この話を聞かせてくれた友人は言った。
なぜだい?と尋ねると、
「神々の鏡には自分の姿と、この世の真理が映るのだ。その深淵に耐えられる者がいるかな」
そう答えて、彼は薄く笑った。
その会話の全てを、私は酒の上の戯れ言だと思っていた。
ほどなくして彼が失踪し、N県の山中で無人の車が見つかるまでは。
N県と聞いた私は、すぐさま件の話を思い出した。
もしや友人は、神の鏡を覗きに行ったのだろうか。
だとすると、どんな真理を見たのだろう。
運転席のシートには、一言
“意味がない”と走り書きされた、メモがあったらしい。
#あなたとわたし
夢の女の子のお話をしようと思う。
彼女は黒い瞳に黒い髪、遠い知らない国に住んでいて、年は私と同じ、名前も同じ、リノと呼ばれている。
リノちゃんのお父さんとお母さんは一生懸命働いているけれど、暮らしは豊かにならない、なぜならその国がずっと戦争をしているから。
リノちゃんはとてもしっかりしていて、お手伝いはするし弟や妹のお世話もする。
一人っ子で甘えん坊の、私とは大違いだ。
リノちゃんの夢は、真夜中にやってくる。
悲しいことが多いので、私は見るのが怖い。
ある日、爆弾で街が焼かれた。
家も人もリノちゃんもみんなみんな、全部焼かれて灰になった。
私は泣きながら飛び起き、お母さんに抱きしめられて、朝まで慰めてもらった。
「大丈夫、全部梨乃の夢だからね。何も起こっていないからね」
そうなのだろうか、本当にただの夢で、リノちゃんはどこにもいない女の子なのだろうか。
でも私にはあの子の恐怖が、怒りが分かる。
大きな大きな悲しみも。
これは小さな子供の頃の話で、大人になった私はもう、そんな夢を見ることはない。
ただ、つい適当に生きたくなると、リノちゃんを思い出す。
戒めのように。
#柔らかい雨
窓を開けたまま、眠ってしまった。
目が覚めたら、しとしと柔らかい雨の音。
枕元のスマホに手を伸ばすと、彼からメッセージが何通も来ている。
“眠れない”“会いたい”“来て”。
仕事で悩んでいることは知っている。
ずっと励ましてきたし、会いたいと言われれば駆けつけた。
大丈夫、ムリしないで、いっそ辞めてしまおうよ、出直そう。
何を言っても、でも、だっての繰り返し。
簡単に言うなよ!とケンカになって、同じ所をぐるぐるするばかり。
私はそっとスマホの電源を切って、布団に頭まで潜り込んだ。
ごめん今日は行けない、だって雨が降ってるんだもの。
あなたのお母さんにはなれない、もう雨が降ってしまったんだもの。