#忘れたくても忘れられない
京都の千本今出川にある、カステラ屋さん。
子供の頃、祖父母の家を訪ねる時のお土産は、いつもそこのカステラだった。
幅一メートル位ありそうな、四角い木箱に入ったカステラが、奥から次々運ばれてきて、スッスッと目の前でカットされる。
表面はつやつやの茶色、中は目の覚めるような黄色、その美しさをうっとり眺めた。
嬉しいのは小さな紙箱に、お試し用の切れ端が貰えたこと。
お試しを全部食べても、ああこの十倍くらいあったらな…といつも思っていた。
祖母は持って行ったカステラを、すぐ仏壇に供えてしまって、絶対出してくれなかったのだ。
京都を離れてずいぶん経つが、どんなに美味しいと評判のカステラを食べても、あのカステラが忘れられない。
そうだ、お取り寄せだ!と思いついたのは、つい数年前のことである。
もはや私は大人、どんなに大きなカステラでも買えるくらいの財力はある。
そして…食べました。
忘れたくても忘れられなかったカステラを、思いきり。
思い出補正かと心配だった味は昔のまま、本当に美味しくて、これ…これなのよ…と涙ぐみそうになった。
だけどどうしたことか、以来あのカステラへの執着は、ばったり失くなってしまった。
きっと子供の頃の思いが満たされて、私はすっかり満足してしまったのだろう。
#やわらかな光
お昼寝中のあなたの顔に、陽が射している。
起こさないよう、そうっとレースのカーテンを閉めましょう。
まだもう少し、やわらかな眠りに包まれていて。
ママがこの本を読み終わるまで。
#鋭い眼差し
鋭い眼差しの人々が、迫って来る。
猫のように切れ上がった目で、私を取り囲む。
「よう来たな、元気そうやないか」
「こき使ってやるから覚悟せえよ」
「今度という今度は、帰さんからな」
「やめて…」
私は怯えたように、じりじりと後退りする。
とたんに弾ける笑い声。
ここは山間の小さな集落で、特徴ある皆の目は、先祖が近いからかもしれない。
大学のサークルで農業体験に来て以来、私はこの里がすっかり好きになり、毎年田植えと稲刈りの時期に、休暇を取って訪れている。
住人の方々とも仲良くなり、いつも「帰さない」と絡んで来るのは、毎回お宅に宿泊させてもらっている源さんだ。
源さんは特に私を気に入ってくれて、役場に勤める息子の嫁に…と、企んでいるらしい。
実は息子の悟さんとは、何度かこっそり街で逢っている。
皆の細めた目を見ていると、もし本当に悟さんと結婚したら、可愛い猫目の子供が生まれるかな…と、私はほんのり想像した。
#高く高く
深夜に突然、衝動に駆られて家を出た。
車に乗り込みエンジンをかける。
どこでも良いから高い場所へ行きたくて。
ほんの数時間前まで彼と一緒にいて、将来の約束をしたばかり。
“ずっと二人で穏やかに暮らそう”なんて、優しい言葉が本当に嬉しかったのに。
車は暗いドライブウェイを走り、人気のない展望台にたどり着く。
空には煌々とした丸い月。
ああダメだ…やっぱり穏やかな人生なんて、私には無理なんだ。
血の沸くような凶暴な感情が込み上げ、私は月に向かって高く高く、狼の声で吠えた。
#子供のように
何だか眠りが浅くなった。
寝つきはまあ良いとして、ちょっとした物音で目が覚めるし、起きたら頭がボーッとしてる。
たくさん寝たら寝たで体が痛くなる。
子供のように眠ってみたいな。
今日のことも明日のことも考えないで、電池切れみたいにストンと眠りに落ちて、朝までぐっすり寝ていたい。
そしてパッと目覚めて、元気に布団から飛び出したい。