瞳をとじて
瞳(瞳孔)の開閉は、自分では出来ない。不随意筋だからだ。脳からの指令で、眩しかったら閉じるし、暗いところでは開く。そして、死んでしまった人の瞳孔は開いてしまう。
だから、言うなら「瞼をとじて」なんだが、「瞳」という響きがきれいなのと、字面も良いので、いろいろな楽曲で使われてきた。
響きや字面は、やはり良いほうが良い。
でも、でも、だ!
そういった歌詞を観たり聴いたりするにつけ、毎回ギョッとしてしまう。
同じようなところで「食べれる」みたいな動詞の表現も、ちと違う。ら抜き表現というヤツだ。いまではほぼ市民権を得てしまい、アナウンサーでも使う人が居るし、歌にも使わている。拘っている私が、頭が硬いのだろう。歳だからな。言葉って、長いスパンで見ると変わってきているからね。
でも、どれも楽曲として立派に成立しているいい歌だし、気にしないで聴いていたら良いんだね。
あなたへの贈り物
あなたへの贈り物を何にしようかと、非常に長い時間考え、非常に長い時間迷い、これにしました。
お気に召したら嬉しいですし、お気に召さなかったら、私がお目にかかる時にそれの行方は聞きませんので、よろしくお願いします。
ただ、私がどれほどの気持ちでこれを選んだかだけは、お察しください。
これからも、よろしくお願いいたします。
・・・なんて手紙が添えてあったら、怖いかな嬉しいかな、相手によるかな(笑)
羅針盤
大海原を行くときは、どこを見渡しても海ばかりで右も左も分からない。羅針盤無しでの航海は自殺行為だ。
人生の羅針盤はなんだろう?人生うん十年、それこそ右も左も分からず漕ぎ続けて、ここまで来てしまった。
結婚前は、あんな親でも教わることもあったのだろう。暗い青春時代だったけど、道を踏み外すことは無く、無事に成人して仕事に就いて、結婚した。
結婚してからは、それまでの人生で身につけてきたモノで生きてきた。言うなれば、自分の経験値が羅針盤?
幸い良い友達も何人か出来て、その人達とは続いてきたので、常識を外すこともなく、嫌われない人格を形成できたのだ。
自惚れているのではない。結局、人間同士だから生きてきた環境も考え方も違う。そのすり合わせで結婚も友情も続いていく。「価値観が合う」というのが、ぴったりくる言葉かな。
その価値観が、今までの経験値から導き出されている物だから、やはりそれが私の羅針盤になっていると思うのだ。
明日に向かって歩く、でも
終わったことは振り返らない。いつも、明日に向かって歩く私。
そりゃ、反省はしますが、考えてもしたがない、つまりやっちまったことはあまり考えない。こーなるかな、あーなるかなと考えても、答えは出ないのだから、深みにはまるばかりだ。後ろは振り返らない。前を向いて進む。
はずだった。でも、前が見えない時もあった。前を向いてもなにも見えない。さぁどうする?!
そんなときはくるりと180度回って、うしろ、つまり来し方をじっくり眺める。振り返れば、そっちが前だ。そっちが明日だ!(屁理屈)
思い悩むのではなく、一つ一つの事象を反芻する。そしてまた振り返って明日に向かう。方向音痴の私は、そこでもうどっちを向いているか分からなくなりそうだが、明日に向かってとにかく歩く!
ただひとりの君へ(特に娘に捧ぐ)
私にとって「ただひとり」は3人いる。
ただひとりの夫と、ただひとりの息子、そしてただひとりの娘だ。
両親が毒親だったので、私は、結婚してからが幸せで楽しくて嬉しくて堪らなかった。
新婚の夫が夜中まで仕事で帰って来ない毎日も、共稼ぎなのに家事協力が不可能だったことも、つわりの苦しみも、ワンオペ子育ても、何もかも平気だったし、本当に幸せだった。
実家から電車で2時間以上の距離にお嫁に来たので、親の干渉も無くなった。お金の無心は百万単位だったけど。そのうち、父は亡くなり、母は施設に入ったから尚さらだ。
指定難病に罹った私が、今の「ただひとり」の3人に支えられて、これからどれだけ生きられるか分からないが、なるべく長く生きたいと思うのは、やはり幸せだからだと思う。
ただひとりの君(たち)へ、幸せな日々をありがとう。