【さよならを言う前に】
「月が綺麗だね」
この暗喩が君には通じないだろう。
でも使ってみたかった。ずっと一緒に暮らしてきて、ぼくと一緒に本の山に埋もれて、満足そうにしていた君だから。
通じると思ったぼくは、ちょっと阿呆かもしれないけど。
だって君は頭が良いし。
ほら、君の目には月が映っている。
君の目には見えないのかもしれないけれど。
「ねえ、綺麗だろう?」
君は短い返事をする。
ぼくはそれだけで幸せだ。
「待っていなくてもいいよ。ぼくはもう少しかかるけれど、君のことを探し出せると思うから、またおいで」
君は薄く開いた目で、何を見ているんだろう。
何を聞いているんだろう。
「大好きだよ」
たくさん伝えたい。
君がこの体から離れる前に、たくさん、たくさん伝えたい。
「ありがとう。大好きだよ。ありがとう。ありがとう。大好きだよ、大好き」
別れの言葉は、君が旅立ってから。
この世界から突き放したくないから。
君の存在をぼくは最期まで求めるから。
「大好きだよ」
別れの挨拶はぼく自身への言葉だから。
君には最期まで感謝を贈ろう。
「大好きだよ」
【鳥かご】
それは重力の別名
それは大気の別名
それは水の別名
それは家族の別名
それは伴侶の別名
それは愛情の別名
それは肉体の別名
それは星の別名
それすなわち魂の別名
【終わりにしよう】
「もうここまでだ」
墓の下であの人が言う。
「気が付いたらぼくの人生の最後の最後まで、捧げてしまったよ。君にあげる時間も無くなってしまった。馬鹿息子の代わりに看取って、埋葬までしてくれたのに。何かを君に残してやることも忘れてしまっていた。非情だね、ぼくは」
いいえ、貴方は人類の死滅を回避して下さいました。
貴方の息子達はこの先、幾度となく訪れる絶滅の危機を退けてくれるでしょう。
だからもう、眠って下さい。
貴方は人類最高の科学者です。
「そう言ってくれるのは君だけだよ…後にも先にもね」
あの人が微笑う。
「馬鹿息子達を頼むよ。出来る範囲で構わないから」
魂に走る最後の電気信号を感じ取る。
ええ、それが貴方の望みならば、叶えましょう。
頷くとあの人は最期に、微かな笑みを残した。
魂の電気信号が完全に消失する。
ずっとずっと優しい人。
貴方との最後の約束を叶えるときが来ました。
幾度目かの人工の眠りに着くあの人の息子達。揺り籠に繋がる無数のケーブルに手を掛ける。
ぶちぶちぶち、とナノファイバーカーボン製のケーブルを、万感の思いをこめて丁寧に引きちぎった。
「サヨウナラ……悪魔」
さあ、世界中の愛しい生命よ。
星を何度も作り変えた悪魔はこの手で始末した。
あの優しい人の願い通り、自由に生きて死ね。
世界はもう繰り返さない。
「終わりにしよう」
【これまでずっと】
そういう生きものとして生まれたから
そうやって生きて
そう終わるのだと思っていた
これまでずっと
これからもずっと
本当に?
【1件のLINE】
もう何年も会っていない弟の誕生日に、「誕生日おめでとう」のスタンプを送った。
返ってきたのは
「そういうの止めろって言ったよな。いい歳して非常識だと思わないのか」
傷ついた
哀しかった
頭にきた
言祝ぎを送ったのに非常識たぁふざけんな
2年経ってそのLINEを消した
弟のタイムラインには残っているだろうが知ったこっちゃない
来年は自分の中で言祝ぎしよう
届けなくても 届かなくても
あいつはたった1人の大事な弟なのだから
ずっと祝ってやるから覚悟しやがれ