星座、誕生日、血液型、画数、干支…占いって色々な種類があって矛盾することもある
どの占いを信じたらいいの?
結局占いなんて嘘なの?
当たりそうな占いを信じればいいと思う
その時の気分で変わっていい
好きな人と星座占いの相性が悪ければ血液型でチェック
それでもダメなら干支で
それもダメならいっそのことタロットカードもあり
私がいちばん信じてる占いは厄年
これはマジでやばい
星座占いで1位の日でも厄年が絡んでくると星座吹き飛ぶから
だけど自分が信じるものは自分で決める
それでいいじゃない
生まれ変わりとか来世とか、信用していない
そもそも人間として生きることは罰ゲームか何かの類いだとさえ感じる
だけどもし私が死んでも次の人生が待っていて、人間として生きることを避けられないならば、今の夫と再び巡り会えたらいいなと思う
幼馴染では早すぎるし、中学や高校で出会ってもきっと私たちは結ばれないだろうから、今回の人生と同じように職場で出会いたい
本音を言えば生まれた瞬間から隣にいて欲しいくらいだけど、それだと人生がイージーモードになりすぎるから、生きることにウンザリし始めた頃にそれまでのご褒美として夫に出会うくらいでちょうどいい
また人間として生きるなんてごめんだし、私の魂≒心はおそらく脳の電気信号に過ぎないから、やっぱり生まれ変わりなんて信じられない
それでも万が一のことを考えて、もし生まれ変わってしまったとしても、夫と再び巡り会えたら私は少なくとも人生の過半数を幸せに過ごせるはず
そう考えると死ぬことも生きることも悪くないのかもしれない
きっと明日も猫は猫らしくワガママを言ってくるだろう
それに応えることが飼い主である私の喜びでもあることを、本猫は理解している
あまりに度が過ぎるワガママだったり、私が忙しそうにしていると、一応ワガママを言ってみるけど別に叶うなんて思ってないからねっ!というツンデレっぷりを発揮する
限度をわきまえて、人間の動きや状況、感情なんかも汲み取ってワガママを言ってくるんだから、猫って末恐ろしい生き物だ
そんなワガママも、あとどれくらい言ってもらえるのだろう
飼い猫は病気を患っている
老猫といわれる年齢だし避けようがない病気でもあるから割り切っている部分はあるけれど、それでもこの瞬間が永遠に続くような錯覚に陥る
生き物はいつか死ぬ
それは猫に限ったことではない
だけど愚かな私は、きっと明日も、そしてずっとその先も、猫がワガママを言ってくれることを願っている
そして本猫は、きっと明日もワガママを言う
限度をわきまえながら、飼い主の様子を確認しながら
自室で過ごす時、テレビや音楽など音のするものは何も流していない
音があると気になってしまい、挙げ句の果てに雑音に感じてしまうから、無音で過ごすのが好きだ
だけど実際にはエアコンや空気清浄機の風の音が聴こえている
完全な静寂に包まれた部屋になるのは、季節の変わり目の頃
エアコンもつけない、空気清浄機がオート機能でオフになる瞬間
一瞬だけの完全な静寂が訪れる時期が今年もやってきた
音楽や喋り声の騒音があると気になるけれど、ずっと聴こえている環境音が急に静かになると、それはそれで違和感を覚える
ふと気付くと静寂に包まれた部屋にぽつんと取り残されていて、私以外の世界の時間が止まってしまったような錯覚に陥るけれど、それはそれでいいかと諦めたような感情になる瞬間
時計の針が再び動き出すと空気清浄機は己の任務を実行するし、飼い猫は鳴きながら甘えてくる
ほんのひとときの静寂に包まれた部屋は幻だったのかと思うほどに儚いけれど、私の脳内に静かな空間を広げてリセットする時間をくれる
それが音を流さないでひとり部屋で過ごす理由だ
別れ際には笑顔で挨拶したい
そうすればその日の思い出はプラスの感情になるから
ずっとそう思っているけれど
大多数の人間にとって感情や感想は蓄積らしい
最後に笑っていても、私がやらかしたミスは消えない
私への憎しみも消えない
いくら笑顔で別れても、プラマイのプラスに影響はしないらしい
私は『終わりよければすべて良し』精神だけどまさかこんな身近に真反対の考え方をする人がいるなんて青天の霹靂だった
実母なんだけど
どんなに笑顔で別れても何かひとつでも不快な思いをしているとその感情をずっと引きずる人
他人の過去のミスや失態をネチネチと愚痴り続けるのに、自分のやらかしは見て見ぬ振りができる人
歳を重ねるに連れて実母はその母親にどんどん似てきている
ずっと憎んできた、死んでもなお憎み続けている、彼女の実の母に
私にとっては祖母
思い起こせば祖母も別れ際の笑顔が義務的で愛情のない印象だった
月に一回、子供をつれて実家に顔を出す母親
月に一回、子供をつれてくる娘をもてなす祖母
何もかもが義務的で誰も望んでいない毎月のイベント
お互いが別れ際にせいせいとするような笑顔
その笑顔は相手に向けられたものではなかった
私は祖母の家に行くのが楽しくなかった
そして今大人になって、私は実母に会うことが憂鬱だ
本能的に親に愛されたい願望はあるし、愛着障害を抱えている自覚があるから、話は拗れる
別れ際の笑顔が信用できない以上、実母と過ごす時間は全神経を張り詰めて一瞬ごとの実母の感情を読み取ろうとしている
そこまでしなくてもいいよ
他人に嫌われたところで私の価値は変わらないよ
大人になって賢くなったもうひとりの私が囁いてくれるのに、子供の頃に満たされなかった感情が滲む
別れ際の笑顔はマナーのひとつなんだろう
それはわかるけれど
私の笑顔は本物だよ
相手が時間を使って私といっしょに過ごしてくれて嬉しいから笑顔が出てしまうんだよ