お題「さよならを言う前に」
お題「夜の海」
子どもの頃、目を瞑ればそこは海だった。
家族におやすみを告げて、明るいリビングから電気の消えた自分の部屋へ。
床に散らばった玩具を踏まないようにおっかなびっくり歩き、部屋の中央に垂れ下がる紐を引っぱれば、薄暗いオレンジで部屋に陰影ができる。
オレンジの電球をつけて、目覚まし時計をセットしたら
黒が波立つ海に立っている。
ふわふわと海の中を漂っていれば、先ほど灯したオレンジの電球が丸に楕円に形を変えながら海の中を泳いでいるのが見えた。
お題「自転車に乗って」
「世界が壊れるってなんだろうね」
頭蓋の隙間からするりと落ちてきたような一言は、どこか遠くに逃げていた意識をあるべき場所へとすとんと落とした。
並んで見ているテレビの中、いつも淡々と話しているアナウンサーが、目頭を押さえながら緊迫した声で非現実的な出来事を読み上げる。
ある日突然世界に空いた穴はついに太平洋の大部分を飲み込み、もうあと一週間ほどで本州に到達する勢いだそうだ。
SNSでは恐怖と諦念の奔流があちらこちらで噴出し、神に救いを求める人、見たこともない穴の中に夢を見る人、手当たり次第に怒りをぶつける人で溢れかえっている。誰も彼もが日常から切り離されて宙ぶらりんになってしまった感情を持て余していた。
「明日からどうしようか」
「映画ならたくさんあるよ」
緊張感のない言葉に二人して吹き出す。
初めて世界に穴が空いた日。小さな小さなそれを皆が面白おかしく騒ぎ立てていて、その例に漏れずどこか非日常に浮かされていた自分たちが買い込んだものだ。
ラインナップにもそれが色濃く映し出されていて、世界滅亡系やら、酷評されていたものやら、いわゆるZ級映画やらでまともなものは数本しかない。
「もっとちゃんと選んどきゃよかった」
「ちゃんと選んだじゃん」
「どこがだ」
「止めないのが悪い」
隣の頭に軽くチョップを振り下ろせば、暴力反対と大袈裟に痛がる素振りをする。追撃すればそれを見切ったように躱し、パッケージにサメが描かれた映画を取り出すと再生機に入れた。
「電気が通ってるうちに全部見るから覚悟してね」
テレビの画面がニュースから切り替わる。
ちらりと見えたアナウンサーの頬には涙の筋ができていた。
二人でいるとまるで平穏な日々の中にいる感覚に陥る。だが一瞬の静寂にそこが既に崩れてしまった場所なのだと思い知らされる。
もう手が届かない日常は沈み、一週間だけの小さな非日常は進んでいく。
じっと画面を見つめる横顔に置いて行かれまいと、ふと息を吐き出し、画面の中の世界へと一つ踏み出した。
「先輩、もう卒業ですね」
「うん」
窓を開ければ今にも綻びそうな蕾の青い匂いの風がカーテンを揺らす。
春めいた柔からな日差しが私達二人を包み込むように優しく照らしていた。
いつになく穏やかな時間は嫌でも別れのときが近いことを意識させられる。
「寂しいです」
「電話するから」
素直に溢せば、優しく笑って宥めるような言葉が返ってくる。
それが寂しい。
からかいと呆れの装飾が外された振る舞いは、よく知っていたはずの彼を遠くの存在に感じさせる。
心臓から目頭へと熱が込み上げてきて、今にも涙に変わってしまいそうだ。
「お前も来るか」
多分これが最後のチャンスなのだ。
言葉を変えて何度も差し出されてきた、別れを遠ざけることができる選択。
わかっているのに動けない。
首をほんの少し動かすだけでいいのに、まるで冬が帰って来てしまったかのように冷たい日差しが私を縫い留める。
「なんてな」
「私には夢がありますから」
何度も返した言葉を吐き出す。
いつものように返せただろうか。
彼を見ていることができなくて、ようやく動けるようになった体で窓の外、どこか遠くを見やる。
「電話くださいね」
「うん」
「待ってますから」
「うん」
「メールもチャットも……手紙だってほしいです」
「全部送るよ」
優しい言葉はさよならにしか聞こえなくて、速くなる鼓動が目から涙を押し出した。
ぼやけて何もかもが混ざり合う景色の中で、よく知っている手の温かさだけが私が縋れるすべてだった。