心の健康
先輩がすやすやと昼寝をしていたのでブランケットをかけた。オカルト部の部室は、教室のある校舎からは遠い代わりに色々なものが置かれている。学園からの支給品だよ、と先輩は言っていた。本当にそうなのだろうかと俺は少し思っている。先輩が勝手に買い揃えているような気がしてならない。
今日は先輩も寝ているし、寮に帰ってしまおうかとも思ったが、このまま放置するのも気が引けた。俺は椅子に腰掛けて、図書館から借りてきた本を読む。紙の捲れる音が室内に響いた。本に集中したいのに、なんとなく落ち着かない。先輩は、今年受験生だ。つまり、来年にはもう学園にいない。それが寂しいと直接言うのは、気恥ずかしいなと思ってから、俺は随分と先輩と仲良くなったことに気がつく。
テンションが高くて、厄介事に自分から首を突っ込んでいく先輩は、けれども、そばにいると楽しい。同級生と喋るのとも少し違うし、妙に気が楽だった。高校になり、勉強も人間関係もガラリと変わったばかりの俺にとって先輩は癒やしでもあったのだ。トラブルに巻き込まれているので認めにくいが、事実だった。
「あと一年も一緒にいられないのか」
先輩が起きていれば、絶対に言えないようなことを口にしてみると心臓が痛むような感覚に陥る。残り僅かな時間を大事にすべきだな、と思いながら俺は文字を終えなくなった本を大人しく閉じた。先輩が起きたら、何で遊ぶかを考えた方が、落ち着けそうな日もある。
君の奏でる音楽
「先輩って、楽器とか出来そうですよね」
部室で詰将棋を持ち出して遊んでいると先輩に乱入されて、普通の将棋になってしまった。パチパチと駒を置く音を響かせながら、俺は先輩の細い指先を眺める。
「急だね。どうかしたの?」
「なんとなく?」
こうして夏休みにほぼ毎日顔を合わせているというのに、相手のことを全く知らない事に気がついた。俺の知っている先輩の事といえば、名前と学年、好きな食べ物と嫌いな食べ物、事件に巻き込まれやすい事、好奇心が旺盛すぎるところぐらいだ。
「楽器は一通り触らせられてるけど、得意なのはそんなにないよ」
「そうなんですか?」
「うん。学園の七不思議を調べる時にピアノをちゃんとしておいたら、楽しいかなって思って練習してるけどね。強いて言えば、僕の得意楽器はピアノかな」
白い指先で鍵盤を叩く先輩を想像してみる。うーん、似合いそう。先輩は胸を張って、俺に笑いかける。
「君が聞きたいって言うなら、第三音楽室を予約してきてあげてもいいよ? 一年生はまだ教室の予約出来ないでしょ」
「あ、普通に聞かせてくれるんですね。俺はてっきり、僕のピアノが聞きたいなら夜中に忍び込んで七不思議を確認ついでに聞かせてあげるよ! とか言われるのかと」
「すごい声真似上手いな……。流石に僕もそんな非常識な事は言わないよ?」
「ああ、先輩にもその辺りの常識が残って」
「七不思議の確認をするなら、しっかり準備しなくちゃいけないだろ! こんな突発的に計画したら危ないじゃないか」
「ちょっとズレてるけど、先輩らしくって少しだけ安心しました」
先輩が不満げな顔をする。話しを微妙に逸らそうか。
「……学園の七不思議って前に調べたって言ってませんでした?」
「うん。そうだよ」
「それなのにまた調べたいんですか?」
言ってなかったっけ、と首を傾げながら言う先輩が言葉を続ける。
「うちの七不思議は定期的に変わるんだよ。僕が調べた時と全然違うのになっちゃったから、また調べなきゃ」
「……この学園、なんか変じゃないですか?」
「とても変だよ。だから、入学したんだ」
嬉しそうな先輩に王手、と言うと途端に絶望の表情になるので面白い。
感情がくるくる変わる先輩のピアノの音も面白い音がするのだろうか。聞かせてもらうのが、楽しみだった。
麦わら帽子
麦わら帽子を先輩に渡したら、お気に召したらしく夏休みに出かける度に被るようになってしまった。正直、よく似合ってるので良いのだけれども、先輩が気にいるとそれに関連した事件が起きやすい事を忘れていた。
ちょっとお金を下ろしてくる、と言った先輩が銀行に行くので着いていった。そこまでは良かったのだ。問題は、銀行強盗に巻き込まれた事だった。麦わら帽子を被っていた先輩はそりゃあ、もう銀行の中で目立っていたので人質になってしまったのである。せめて麦わら帽子を脱がせておけば良かったかと後悔しても、もう遅い。
銃を突きつけられた先輩は、興味深げにそれを眺めている。人質として泣き喚くのも犯人的には迷惑だろうが、怖がられないのもやりにくそうだ。俺はひやひやとしながら、先輩を見ていた。落ち着きなく、指先を動かしながら見ていた銃から目を離し、辺りを見渡した先輩はにこりと笑う。この場で一番死ぬ可能性が高い人間だとは思えない笑みだった。俺の周りにいる人たちが、こんな状況だというのに先輩に目を奪われているのが分かる。そして、それは犯人も同じだった。
先輩の笑顔に俺は小さく頷いてやる。仕方ない。腹をくくるしかない。俺が頷いた途端、先輩は自分に銃を向けている男の顎を思い切り掌底で攻撃する。俺も走って、近くの銃を持った男の側頭部を狙って殴った。銀行強盗はあと二人いる。しかし、奥の方で金を回収しに行っているので時間の余裕があった。先輩が銃を回収しているのを視界の端に捉えながら、俺も銃を男から取り上げる。
「よくやったね、後輩くん!」
麦わら帽子の位置を調整した先輩が、近付いてくる。
「危ないから救助を待ちましょうって言いましたよね?」
「でも、この方が早いだろ?」
危険が無くなったので、銀行員が通報を行なっている。確かにあのままだと夕方までかかりそうだったし、先輩も丁度良い人質として拐われていた可能性はあった。
「だからといって、危険をおかすのはやめてください。いつバレるかとヒヤヒヤしました」
「えー、だってさあ……君以外にモールス信号伝わってなさそうだったし。君だって、僕にモールス信号で文句言ってきたじゃないか」
「そりゃ、この銃は偽物だからこいつらを気絶させようって言われたら文句の一つや二つ出てきますよ」
先輩のおかげなのか、先輩のせいなのか、荒事にすっかり慣れてしまった俺だが、銃を持ってる人間を気絶させたのは初めてだった。例え、偽物だよと先輩に伝えられたとしても怖いものは怖いのである。
「でも、上手くいっただろ?」
「それはそうですけどね……先輩はもっと安全について考えて行動した方がいいと思いますよ」
「だって、あのままだと今日遊べなくなっちゃうだろ? 君に貰ったこの麦わら帽子だって、邪魔だと捨てられてしまうかもしれない。それは、とても困るんだ」
いじけた先輩が、口を尖らせる。
「……最近、俺が喜びそうな事を言ったらお説教から逃げられると思ってませんか?」
そっぽを向いた先輩が、調子のはずれた口笛を吹く。怒っているのが馬鹿らしくなってきたが、先輩には責任を取ってもらう必要があるのでちゃんと安全を意識してもらわなければならない。俺はもう、先輩のいない刺激のない生活をどうやって過ごせばいいのか分からないのだから。
終点
「さて、自由研究の始まりだ!」
先輩が高らかに宣言する。
「俺らの高校は自由研究ないですよね」
「こういうのは雰囲気が大事なんだよ。自主的に自由研究してもいいだろう?」
ほら早く、と先輩に手を引かれて電車に乗り込んだ。
「先輩って俺の記憶によると今年受験だったと記憶してるんですが」
「うぐ……遊んでる時ぐらいは勉強の話はやめようよ。今日は禁止!」
普段は恐ろしい程に混んでいる車内は、もぬけの空だった。それも当たり前の話だ。俺たちの乗った駅は学園前という、学園の目の前にある駅なのだ。今は夏休み。この駅を使う人間も殆どいなければ、路線自体の使用率も減っている。
俺と先輩は適当な場所に並んで座る。
「あー、いつもこうならいいのにな」
「あれ、君って寮じゃなかったっけ?」
「たまに外に買い物に行く時に乗るんでるよ」
「へえ……学園の中にもスーパーあるのに、物好きだね」
「……まあ、そうですね」
変わり者の先輩に物好きと言われるのは釈然としないが、先輩と行動を共にしているのは物好きと呼ばれても否定出来ないので、頷いておく。
「で、今日はどこまで行くんですか?」
「言ってなかったっけ」
流れていく木々を眺めながら、俺と先輩はいつものように会話をしていく。
「終点だよ。終点。僕、この三年間で行ったことなかったなぁって思ってさ」
「終点!? めちゃくちゃ遠いですよね? だから朝早くに集合だったんですか」
「うん。そうだよ。終点でちょっと散歩してからまた電車に乗ろう」
「……それだけですか?」
先輩が俺を引っ張り回して何処かに連れていく時は、事件が起こりそうな時だ。例えば遺産相続争い中の島だったり、殺人事件の起きた教室であったり。終点で何か事件が起きるのか、或いは乗車中に事件が起こるのか。
「そうだよ?」
「今までの己の行いについて胸に手を当てて考えてみては如何でしょうか。何かあるんでしょう?」
先輩が首を傾げる。
「単に終点まで時間が掛かるから、君と一緒だと退屈しなくて済むので呼んだんだ。君も暇だろう?」
君と喋ると楽しいからね、と続ける先輩が全く恥ずかしそうにしていないので、俺だけ照れるのもおかしな話だ。……おかしな話ではあるのだけれど。
「えっ、君なんか顔が赤くないか!? 大丈夫? 熱中症対策の為に水とか飴とか持ってきたよ!」
わたわたとする先輩に問題ないから落ち着いてと伝える。
「……じゃあ、部室で喋らないことを喋りましょうか。一年の時の夏休み明けの試験にどんな問題が出たか、とか是非聞きたいですね」
「勉強の話は禁止って言っただろ!?」
先輩の悲鳴のような声に俺は頬を緩ませる。先輩の持ってくる事件に巻き込まれるのも楽しくて好ましい。けれども、たまには、こうしてゆっくり過ごすのも悪くはないだろう。
上手くいかなくたっていい
部室に行くと先輩が不機嫌そうにしていた。分かりやすく頬を膨らませて、俺から視線を外す。こんなに自己主張の激しい「私は機嫌が悪いです」を初めてこの目で見た。どうやらフィクションの中だけの概念ではなかったらしい。
さて、どうして常にご機嫌でご機嫌大使と書かれたタスキを肩にかけていそうな先輩がご機嫌を45°ぐらいにしているのかと言えば、先輩唯一の後輩であるところの俺と喧嘩をしたからである。思い返してみれば、原因も覚えていないぐらいのささやかな喧嘩ではあったのだが。一つ、問題があった。
先輩の見目は贔屓目に見なくとも麗しい。黙っているとちょっと声を掛けにくい高嶺の花タイプなのである。口を開けば、ぺらぺらと喋る陽気な人間であることを知っている俺ですら、先輩が無言で空を眺めていると気後れしてしまうのだ。あと、実は少しだけ人見知りなところもあるので、知らない人間に自分から話しかけることも少ない。今はこういう役を演じます、と己に言い聞かせればひどく社交的な人間にもなれるのだけれども、わざわざ日常生活でそれを持続させるのも面倒くさいらしい。
そういう訳で先輩には友達がほとんどいなかった。数少ない友人とやらも年上の人間が多く、同年代の親しい人間はほぼゼロ。それがどういう事態を引き寄せるかというと――喧嘩に慣れていない人間が出来上がってしまうのだ。
僕は謝りませんという態度の先輩は、それでも仲直りをしたいのかチラチラと俺の様子を伺ってくる。あまりの不器用さに幼稚園児かなと思い始めてきた。俺がここで譲歩して、先輩と仲直りをしても良いのだが、それだと先輩の情緒の成長につながらない気がする。などと、先輩に知られたら怒られそうなことを俺が考えていると、先輩がじわりじわりと近付いてきた。
相変わらず無言の先輩は口をはくはくとして、言葉を搾り出そうとしている。先輩の謝罪の言葉が、どれだけ下手だとしてもまずは仲直りをしてあげようかなと思いながら、見守った。俺を練習相手にして、この妙なところで不器用で世間知らずの先輩が、少しでも楽しく生きてくれたら良い。