「ハッピーエンド」
幸せのあり方とは、人それぞれである。
何をもって幸せと感じるか。
人生の終わり。
自分の部屋で誰にも知られず終わりを迎えるのが幸せだと感じる人もいれば
病室で、大切な人…家族や友達、パートナーなどに囲まれて終わりを迎えるのが幸せだと感じる人もいるだろう。
だが、終わり方だけが全てではない。
それまでにやってきたことなどもエンディングには関わってくるだろう。
ゲームと同じだ。
少し違う選択をしただけで、同じハッピーエンドというくくりでも全く違うものになったりする。
一番大切なのは、終わるまでに様々なことに挑戦しておくべきだ、ということだろう。
「あれはやっておくべきだった」
そういう「やらなかったことに対する未練」を感じることが、どうやら人生の最後に多いことらしい。
「やらないで後悔するより、やって後悔した方がいい」
という言葉を聞いたことがないだろうか。
私はそれが間違っているようには思えない。
確かにそうだとも思う。
幸せは人それぞれだ。
何をしている時が幸せに感じるのか。
自分自身のことで考えてみると、もっと自分のことを知ることができると思う。
一番最後に幸せなのは、誰だって自分自身でありたいだろう。
「見つめられると」
視線が交わる。
少し気恥ずかしくなって視線を逸らそうとした。
でも、彼の瞳に吸い寄せられて。
見つめ合う。
『ずっとこの時間が続けばいいのになぁ』
そう心がポツリと呟く。
見つめられると幸せな気持ちになる。
数秒見つめ合ったあとは、いつも貴方が私を引き寄せてハグしてくれる。
その時間がどれほど幸せか。
またできるだろうか。
彼のことが好きだ。
何があっても。
私の愛は重いらしい。
友達のお墨付きだ。
だから、最初に離れるのは彼の方だろうから。
いつまで幸せでいられるかな。
いつまで幸せな時間の中で寝ていられるだろうか。
「My Heart」
私の心臓。
それはすなわち、私の彼氏のことだろう。
彼氏がいないと生きていけない。
私の全ての軸である。
…そうでありたい。
人を信用するのは得意ではない。
気分一つで害を与えてくる輩もいるのだから。
彼氏はそうではない。
気分屋ではないからだ。
わかっている。
わかっているのだが。
人を信用できないのは、私自身が自分のことを信用できないからだろう。
私の心臓は今、いったいなにでできているのだろうか。
彼氏か?
自分自身か?
中途半端にしか信用できないものを、仮に心臓とする。
それはすなわち、なくなれば全ての機能が停止する。
…少し、自分の在り方について考えたほうがいいのかもしれない。
「ないものねだり」
『ねぇ、これ買って!』
『こっちがいい!』
『〇〇ちゃんのやつ、私も欲しい!』
子供の頃、欲しいものはほぼなんでも手に入っていた。
ゲーム機も、新作のゲームソフトも、美味しいお菓子も。
一言「欲しい」と言えばほとんどのものが手に入った。
両親は私を可愛がって育ててくれた。
そうやってなんでも手に入っていくうちに、段々とそのもの自体に興味がなくなっていってしまった。
ゲームはほとんどやらなくやった。
友達がしつこく勧めてくれば、無料ゲームぐらいは入れてやるが。
それも、30分プレイすればいい方だろう。
お菓子も、食べはするが欲しいとは思わない。
食べるとしたら友達にお店へ連れて行かれる時ぐらいだろう。
もしくは貰い物か。
子供の頃、散々欲しがっていたあれこれは、既に飽きるほどに味わってしまった。
新しいものが出たとしても、大体どんなものかわかってしまう。
だから、想像すればそれだけで満足してしまう。
子供の頃、ないものねだりをしすぎたせいで、どうやらほぼ一生分の「ないものねだり」を使い切ってしまったようだ。
つまりは、足るを知った、ということなのだろう。
私は幸せ者だ。
制限がない環境にいれば、本来足るを知るというのは難しいことだと思うから。
これからも、自分の環境には感謝しなければならない。
この生活があと何年持つかもわからないのだから。
「好きじゃないのに」
好きじゃないのに、好きだと言う。
私はここ7年間、それをしたことがない。
常に自分を貫き通してきた。
子供だからできた芸当だとも思うが。
私の憧れの人が言っていたのだ。
自分を曝け出して生きろと。
誰かの言いなりだけでは駄目だと。
自分で思考し、行動する。
それが一番大切なことだと。
さすがに、そればっかりでは自己中な人になりかねないので、必要な時以外は基本その考えに従ってはいないが。
でも、憧れの人が言っていたことは間違っていないと思う。
自分を見失ってはいけない。
生きながら死ぬなんて私は絶対にしたくないから。