毎年の事だが、何故か1年を振り返るとため息が出る。
それは悔いを残した事に対してのため息なのか、あっという間に1年が過ぎてしまう…という寂しさへのため息なのか。自分でも理由がわからない。
納得がいった1年になったかと言えば、そうではない。
100%の力を出し切ったかと問われれば、下を向いてしまうかもしれない。そんな自尊心の低さへのため息、そう思うとしっくりくる……とも言い切れない。
苦しくて、自分の気持ちが上手く伝わらない焦りや苛立ち、戸惑い、悲しみがそうさせているのかもしれない。
幼少時代、自分に取っての宝物、それは近所にある公園でした。
放課後は必ずと言って良い程、友達とその公園に集合しました。野球をしたり、かくれんぼをして遊んだり、時には友達と言い争いになったり、遊び場でもあり学びの場でもありました。
そこにあった木製ブランコ、色鮮やかなジャングルジム、プラスチック製の青色と黄色のトンネルに包まれた砂場。公園入口付近の狭い駐輪場や、公園を囲う低いフェンスまで自分にとってはかけがえのない、宝物でした。
ある日、突然父親から引っ越しの話をされます。
あの時は、説教をされた後、ついでのように言われたのを鮮明に覚えています。引っ越すという事実、そんな大事な事を二の次の様に言われた事に対する憤り、悲しみ、屈辱……昔の事ですが、大人になった今でもその感情は心に染み着いています。
公園はおそらくそのまま残り、自分がそこに行かなくなったとしても、子供たちが走り回り、笑顔で遊んでいるその愛くるしい風景はそのままなんだろうなと、思えば思うほど、自分だけが、大好きだったあの公園とそこでの思い出に取り残された気分になりました。環境の変化とその現実に気持ちが追いつかず、引越し先では毎日のように泣いていました。
あの公園を、あんなに大切なみんなとの時間を奪われた、そんな気分でした。
大人になった今は、不思議とその気持ちを受け入れられるようになりました。憤りも悲しみも、自分は余程楽しかった証だな、幸せな時間を過ごしていたんだなと親に感謝をするように……いつしか、感情の変化に教えてもらう事が増え始めました。
クリスマスの過ごし方を想像すると、パートナーや家族と共に食事をしたり、お出かけしたりすることをイメージしがちだけど、もちろんお一人様もいれば、クリスマスの度に苦い思い出が蘇り、そのジレンマとの葛藤で窒息しそうな思いの人も、もちろんいる。
わかりやすい、楽しそうな、あくまでも楽しそうなイメージを与えやすいイベントではあるだろう。残念ながら日本人の脳内では、これがデフォルト設定として植え付けられている。何か楽しいことをしなくてはならないくらいの脅迫に近いものすら伺える……
むしろ人間が皆、わーい、クリスマスだー、と言って、どんな困難な人生を送っていようが、どんな大病を患っていようが、戦争で家族を失っていようが、大切な人が眼の前で一瞬にして消えてしまうような体験をした、その心に刻まれた深い傷跡も自動的に癒やして、とにかくハッピーで、その感情のみに支配されてくれたらどれだけ楽か。
幸せは人それぞれであり、その人が聞いてきた声、見てきた色、嗅いできた香り、触れてきた温もり、冷たさ、感じてきた痛み。そういった破片によって形成されるものであって、けして人類共通のハピネスは存在しないような気がするのは自分だけだろうか。
クリスマスだからとか、イブだからとかは関係ない。
あ、なんか幸せだなと一瞬でも思えればそこに価値がある。
その些細だけど、愛くるしい瞬間の積み重ねが
大きな幸せとなって、気付いたらそこにある。
よし、今夜は独りで溜まってたアニメ見るぞぉ!!
今年も、自分は独りだ。
毎年の様に街はイルミネーションと、白い吐息、そして入り交じる様に通行人が他愛もない会話をしている。
プレゼントを与えられたその人は、はたして本当に喜ぶのだろうか。
むしろ迷惑なのでは?全く興味がないかもしれない。
渡した際に、この戸惑いの気持ちすら伝わってしまい、
嫌われてしまうのではないだろうか?