夫婦
週末のまとめ買いの帰り、目の前を黒い車が走っている。ナンバープレートが目に入る。
まただ、1122。いい夫婦の日。
「最近はちょっと減った気がするけど、やっぱりあのナンバープレート多いよねえ」
前を見ながら、隣の運転席に話しかけた。
「新婚の時に車買った人だろなあ」
「あれ、呼び出しの時とか困んないのかな。私、四桁しか覚えてないし」
他愛のない会話。
平凡な日常。
大事な娘。
それは私が結婚で得たもの。
以前、今はもう亡くなった伯父に、夫はどんな人か尋ねられたことがある。その時、頭に浮かんだことはたくさんあったけれど、結局私は「おもしろい人です……」としか答えられなかった。伯父は笑った。
「それはいいね。それが一番だよ」
商売上手で苦労人で、口喧しい伯父が、やけに嬉しそうに言ってくれた。時々思い出してはその言葉に力づけてもらっている。
いろいろあったけど、結婚は悪くないと思うようになった。だから来世まで一緒に、とは思わないけれど、この世では最後までよろしく。
娘に伝えるなら、経済的な自立は大事だと言っておきたい。
いつでも離れられるからこそ、もう少し頑張ってみようと私は思えたし、少なくとも私たちは対等でいられた気がする。
#96
どうすればいいの?
「着いたよ」
駅前のロータリーに車を停めた。街路樹に飾り付けられたイルミネーションが、黄昏時にきらきらと光り始めている。
クリスマスには気が早いだろと、冷えた気分でフロントガラス越しの光を眺めた。
「どうすればいいの?」
助手席で俯いた彼女が呟く。膝の上に置いた手を強く握り締めている。その手に触れたくても触れられないのに。
なのに、俺に聞くの?
俺に聞いたら、答えは一択。
今すぐアクセル踏んで、どこかに連れて行っちゃうけど。彼の手が届かないところに。
それでもいいの?
きみを泣かせることになってもいい。
どこか遠くへ。
#95
宝物
銀(しろかね)も金(くがね)も玉もなにせむに まされる宝 子にしかめやも
万葉集 山上憶良
何よりの宝だと我が子を大切に思う気持ちを、これほど素直に詠んだ歌があるだろうか。
遥か千年以上も昔の人たちだって今の私たちと変わらない。同じような感情を持って生きていたのだと感じさせてくれる。
人間っていいなと胸の中が温かくなる歌だ。
だけど、こんなにも子を愛しむ親がいる一方で、目も耳も塞ぎたくなるような虐待も起きる。どちらも同じ人間だ。
良いものばかりじゃないのは、よく分かっている。
悪いものばかりじゃないと言い切りたいのに。
どうか子どもたちが慈しまれて育ちますように。
#94
キャンドル
「火、点いてる?」
「点いてる!」
「じゃあ灯り消すよ」
「うん!」
電灯が消えた暗闇に、キャンドルに照らされた顔がほのかなオレンジ色に浮かび上がった。
バースデイケーキに飾られたキャンドルの火が揺れる。
この火は自分のためのもの。
きゅっと手を握りしめる。晴れがましくて、でも気恥ずかしくて、綻ぶ口元にも力を込めた。
吹き消そうと顔をキャンドルに近づけると、眼の前で揺れる火が眩くて見蕩れた。ろうが燃える甘いような匂いが強くなって、近づけた顔が照り返しで熱い。
「あんまり長く点けてると、ろうが溶けてケーキについちゃうよ!」
「今、消すからっ」
もう私は大きくなったんだから、一吹きで消さないといけない。急いで大きく息を吸い込んで、胸いっぱいに貯めて、ふーっと強く吹く。
消えない時はこっそり息を継いで一回で消したふりをした。
たくさんの想い出の一つ。小さな火の記憶。
#93
たくさんの想い出
いいことや悪いこと、嬉しいことや悲しいこと。
たくさんの想い出が色を変え、濃淡を変えて、
点描画のように私の中を染めていく。
意外な色が不思議な効果を持つこともあって、
たった一枚きりのどこにもない絵。
これからどんな色が加わるのか、どんな絵に仕上がっていくのかわからないし、
誰に見せるものでもないけれど、
最後に素敵だったと思えるものになればいい。
#92