「ピアノ弾けるようになりたい」
彼女がそう言い出したのはいつのことだっただろうか。多分、いつかの演奏会後だったと思う。
そう言われたとき、僕は嬉しくてすぐに頷いたのだ。
そこからまいにち、少しずつ少しずつ練習して、彼女はどんどんピアノが上手くなっていった。それはピアノを弾く仲間ができたという事実においては、とても嬉しくて、彼女と音楽を奏であえるようになったということに喜びを感じて幸せだった。
ある日、迷い子がやってきた。その時はちょうど権力者がピアノを弾いている最中だった。
迷い子は権力者の奏でるピアノの音色をいたく気に入ったらしく、迷い子は、それを決め手にこの世界の住人になることを決めた。
彼女は迷い子を洗脳しなかった。なぜだかは分からない。ただそう決めた日だけは、彼女の姿がボロボロだったような気がした。
権力者は僕のためではなく、迷い子のために、ピアノを弾くようになった。僕の演奏を聴くことではなく、自分の演奏を聴かせることに喜びを感じるようになった。
嬉しかった。彼女が自分でピアノを弾くことを楽しいと思っていてくれて。そしてそんな風に思わせられるようになった自分に少しだけ誇らしさも覚えた。
でも、同時に少しだけ苦しかった。僕と一緒にピアノを弾くことに喜びを感じていた彼女は、僕と一緒にではなく、迷い子のためだけにピアノを弾くようになってしまったことが。
それは醜い嫉妬心にとりつかれたようで、そんな自分が少しだけ嫌になると同時に、権力者に独占欲を抱いていたことに、今更気づいてしまった。
(現パロ)
夜の海に行く。そこの事実だけを切り取るとまるで自殺しに行くみたいな感じがしてくる。でもそんなことは、決してない。ただ海を見に来ただけなのだ。
家からチャリで数分のところに海がある。静かで、オンシーズンの昼でも特に人で賑わってはいない、そんな海。夜は昼にも増して、静かで波の音だけが外に響いている状況だ。
考え事をしたい時は、いつも来ている。明日のテストが憂鬱だとか、誰かのことが好きでたまらないとか、不安や悩みが尽きないとか、なんとなく気分が落ちているとか。
今日来たのは彼についてだった。
ユートピアで演奏者なんて名乗っていた彼。神様だって言ってたから、ボクみたいに人間界に転生することはないかもしれないけれど、それでも記憶にある前世の中で好きだった人のことなんて、全然忘れられるはずがなかった。
そもそも前世と言えるかどうかもよくわからない。生まれ変わったのだか、それともただユートピアから逃れて、人間界に降り立ったのか。
ただ一つ言えるのはどれだけユートピアにいた期間が遠くなってしまったとしても演奏者くんのことは忘れられないし、好きだって気持ちもなくならないってことだけだ。
(現パロ)
「あっつー……」
「…………そうだね、僕もそう思う」
ボクの言葉に対して、演奏者君がそんな曖昧な言葉を吐いた。なんとなく話が噛み合ってないような気がするのは、暑さに頭がやられてるからかもしれない。
「バスで帰るの、嫌だな……」
「僕は自転車だよ」
自慢だろう、と受け取れるような感じで彼は言った。でも自転車に乗っているからって涼しいんだろうか、確かに、僕はバスを待たなきゃいけないからその間の時間ってのは凄く暑い。でもバスに乗ってしまえばクーラーが効いててとても涼しい。
その点自転車には、クーラー機能なんてない。漕いだ後は暑いなんてことも聞いたことがある。ということは全然自慢じゃないんじゃないだろうか?
「…………涼しいの?」
「涼しいよ。自転車を漕いでいると風と一体になっているという感じがする。それは結構涼しいんだ」
「………………止まったら?」
ボクがそう問いかけると、彼は目をそらした。要するにそういうことだ。
「……………………自転車に乗って海まで行きたいね」
「………………いつかね」
ボクはそう答えた。
「体の健康だけじゃなくて、心の健康にも気遣っているかい?」
急にそんなことを言われたことを思い出した。心の健康って何なんだろうか、よくわからない。でも、演奏者くんが、僕のことを気遣ってくれてるんだろうなってことはなんとなく伝わった。
彼は優しい。ボクは敵なのに気遣ってくれるところとか、なんだかんだあんまり僕のこと憎んでなさそうなところとか。多分善人側の人間なんだろうなってことよく伝わってくる。そこが憎たらしいとも言う。
ボクは善人じゃない。迷い子を洗脳してるところとか特にそうだ。この世界にとっては善人かもしれない。正しいことをしているかもしれない。でも多分常識的に見たら、全然正しいことじゃないことぐらい僕にだってわかっている。
もしかしたらこんな風に考えてるのって、心の健康が損なわれてるってことなのかも知れないなんて、ボクはそう思ってしまった。
「君の奏でる音楽が好きだよ」
いつもの演奏会の後、彼女がそう言った。
「……ありがとう」
いつも言われてるその言葉。それでも慣れないのは、いつも冗談の方が言うことが多い彼女が、本心から思っているんだと手に取るようにわかる態度で言葉を紡ぐから。
「…………曲が好きなのかい」
「……ううん。君の奏でる音楽が好き」
でも、いつも『奏でる音楽が好き』としか言ってくれなくて、なんとなく腑に落ちない。
「…………曲は好きかい」
「好きだよ。君が演奏する曲はどれも素敵だから」
「…………弾いている姿を見るのは好きかい」
「好きだよ。ボクが押しても綺麗な音色にならないけれど、君が弾くと絶対綺麗な音色になるから魔法みたいで好き」
「………………ピアノは好きかい」
「好きだよ。見た目はちょっとだけ怖いけど、とっても繊細な音を奏でるから」
「………………そのどれかが一番好きなのかい?」
「ううん、君の奏でる音楽が一番好きだよ」
分からない。何が好きなのか、僕には。
そう思った時、彼女は微笑んで言った。
「別に曲じゃなくてもいい。綺麗な音色を繊細な手つきで楽しそうに弾いてる姿を見てるのが好きで、紡ぎ出される音楽が好きなだけだから」
…………なんとなく、照れくさくなった。