街へ
遠いところへ行こう。
誰も自分を知らない遠いところへ。
過去のことなんか全部忘れて、新しい自分へと生まれ変わるんだ。そうしたら、きっと今よりももっと素敵な自分になれてて、隣にはもっと素敵な人もいてくれてるはずだから。
家は大きくなくてもいいから、居心地が良くて、景色がいいところにしよう。朝になったらカーテンを開けて、大きい伸びをするんだ。庭には畑を作って絵本に出てくるような大きなカブとカボチャを育てよう。豪華じゃなくてもいいから、毎日おいしくて、お腹いっぱいになれるご飯を。もちろん、人生のお供に動物も飼おう。犬がいいな。麦畑みたいな毛並みをしたゴールデンレトリバーがいいな。毎日その相棒と草原を走り回るんだ。
新鮮な空気を肺いっぱいに吸って、青空に向かって懐かしい歌を歌う。アコギなんかも弾いちゃったりして。
夜は星空を眺めながら、羊を数える。1匹…2匹…。
それで、なんの悪夢を見ることもなく、朝日を怯えるなんてこともない日常が、送れるはずだから。
それができたら、どんなに幸せなんだろうと、埃を被ったカーテンを見て、そう思った。
優しさ
もしかしたら、うちの犬は明日死ぬのかもしれない。
私の足に前足を伸ばして、尻尾を千切れるほどに振り回し、私の腕に顔を擦り付けるうちの犬の、つぶらな黒い瞳を見て、ふと、そう思った。
数年前に犬を飼い始めた。トイプードルで、オスで、名前は『モグ』。名付け親の父からは、『モグモグといっぱいご飯を食べて欲しい』という理由でモグと名付けたそうだが、実際はすごい偏食家で、高いペットフードしか食べない裕福気取りの犬になってしまった。
そんなうちのペットのモグ。なんで、死んでしまうかもしれないと思ったのは、思ったのは……、なぜだろう。
けれど、そう思った。ふと、そう思ってしまった。
歳だろうか、最近よくモグは吐く。しょっちゅう母の車に乗せられて病院に行く。モグはきっと、この家に来るべきじゃなかったと思う。モグは私が家に帰ると必ず、私の足に前足を伸ばして、腕に顔を擦り付ける。尻尾を扇風機のようにブンブン回して。私はそれが理解できなかった。その行動は、その愛情表現は、私にするべきじゃないからだ。
私は酷い飼い主だ。
私は、モグを蹴ったことがある。モグの腹を。
最近まで、私はモグのことが好きじゃなかった。嫌いというほどでもなかったが、少なくとも家族ではなかった。いつからだろうか。モグに噛まれて、爪が割れた時から?。手に傷が残った時から?。お気に入りの人形を壊された時から?。わからない。けれど、そう…、その時、学校でうまくいかなくて、イライラして、親にも、何もかもに嫌気がさしていて、物に当たったり、カーテンに何かを投げつけたり、してて、その時、黒い、瞳で見つめるモグが、とても憎らしく見えて、私は蹴った。蹴ってしまった。それなのにモグは私に尻尾を振って、構ってと、そのまた黒い瞳で私を見つめてくる。なんで?。私はきみに酷いことをしたじゃないか。一度や二度じゃない。なんでそんなことができる?。
飼い始めの頃、毎日ブラッシングしてたからか?。途中で飽きて辞めてしまったのに?。
母がヒステリックになって、家を荒らした時、私のところに来たのはなんで?。私が隅で縮こまってたから?。
わからない。わからない。なにも、なにもわからない。
きみは一体何を見てるんだ。何もきみにしてあげられなかったじゃないか。
『今日もモグ吐いててね、食べたものをそのまま吐いてるみたいなの。』
お風呂上がり、浴室から出ると母が言った。知ってる。知ってて、私は見ないフリした。昼に一階に降りると、くすんだ薄桃色の鶏肉が汚く点々と落ちてた。ドロドロの消化されたものじゃなかったから、モグが皿から落としたのかと思ったけれど、それでこうはならないとすぐにわかった。わかってそれを片付けなかった。汚いから。みっともなくて惨めだから。
洗面所にまでついてきたモグからは、ゲロ特有の酸っぱくて苦い、臭いにおいがした。口元の毛には固まったカピカピのゲロが張り付いてた。
水に濡らしたティッシュで取ろうとしたら、器用に頭を動かしてティッシュを避けていく。水嫌いだったもんな。シャワーする時いつも浴室の影に隠れてたから。私は諦めてそのティシュを捨ててモグの頭を撫でた。
洗面所にまで入ってくるのは珍しいなと思った。モグの体調が悪いのは、たくさん吐くようになったのは、私が腹を蹴ったからかもしれないと思った。
ごめんね。ごめんなさい、明日も、生きて、私の横に座ってくれませんか。
ミッドナイト
いつから、深夜の12時が怖くなくなったのだろうか。
子供の頃は、あんなに怖くて仕方がなかったはずなのに、いつから、眠れなくなったんだろう。
安心と不安
私は、私は、私は…、母が。母が嫌いだ。
と、とても、とても嫌いだ!。
ああーーー!、あー、あーーー!!!。
うわぁーー!!、あー!ごめんなさい、どうか、どうかどうか許して。許して許して、どうか許して。
ちがうんです、違う、私はぁ…あー、悪くない…うぅー…。
正気に、正気、正気に戻らなきゃっ、ければ。
……いち、いち〜……にぃー、さん、さん、さん……。
…………〜〜〜〜っ、…………。
…………お風呂を。出たら、母親が料理をしていて、それで、今晩食べる料理は何がいいかと聞かれて…、それに私は、母の作る料理を今日も食べることに嫌気がさしながらも、「どうでもいい」と答えて、だから、それで、私の部屋は2階だから水筒にお茶を入れた時、水筒が結構な重さになってしまって、それで、「思い切り、これを振りおろせば、あの母を殺せるのでは」と思って、思った。その考えに、自分でびっくりして、なのに、その場から離れることができなくて、頭がわんわん呻いて、うるさくなって、目も閉じれなくなって、息が浅くなって、必死に、必死に、いろいろ考えて、かんがえて、かん、かん、考え、て。私は、わたしは。
何もせずに部屋に戻った。
………しょう、正気に、なってしまっ、た。
……なんで、なんで、私の嫌いな人たちは、ことごとく、ことごとく、悪人じゃないのでしょうか。
あああ。早く、早く母親が私を殺しにくればいいのに。