高宮早苗は理想が高い。
理想、というより、最低限が高いのだ。彼女は「これくらいならできて当然だよね」みたいなことを平然といってしまう時がある。
勉強も、運動も、自分の生活に関することは何にもでも。とにかく、最低限できることへの理想が高い。そして、できないことがあるといじける。いじけてできるようになるまでやる。華奢な体で無理をして、倒れてしまうことも、熱を出してすることもあるというのに。
いや、そうなってしまうからこそ、できることを多くしようとするのかもしれない。最低限これだけはやっておこうになるのだろう。そしてその結果、理想が高くなった。そういう経緯があるのかもしれない。
だとしたら、早苗のその行動はあまりにしも必死すぎる。健気とも取れる。
だが、宮川翔吾から取ってみれば、その健気さは、抑えておいて欲しいと思う時がある。
例えばそう、今のように台風で風が強い中外に出ようとしているところとか。
「この僕が風に負けるなんてことあると思うかい?」
「普通にあるからやめとけ」
急に電話がかかってきたかと思うと、そんなことを宣う早苗に、翔吾は眉間に皺を寄せながら制止するよう呼びかける。が、しかし、電話越しなのでどこまで止められるかわからない。これが会っている状態ならひっつかまえてでもとめるのだが、目の前にあるのは自室の窓で、ビュゥ、と音を立てて吹き荒む風が吹いている。そして今どこかの家のタオルがとんでいった。早苗の姿はない(住んでいるところが違うから当たり前だ)。
「いいか、絶対出るなよ。出たら絶交だからな」
「小学生みたいなおどしだなあ」
「台風の日に外に出ようとするまんまガキみたいなやつに言われたくない」
「いや、いや。僕にはちゃんと考えがある。そもそも、小学生の頃に比べて今の方が体重はあるんだぞ。ちょっとやそっとでとんでいくようなことはないだろう」
「どんだけ強い風が吹いているか見たか?」
「見えているとも。なんなら写真でも送りつけようか?」
もう売り言葉に買い言葉みたいな感じで一つもお話にならない。早苗は絶対に風に負けることはないから外に出ると言い張り、翔吾はさすがにそれは無理だろうと反論を繰り返す。だがどうにも二人の考えは、平行線をたどるしかなく、折り合いがなかなかつけられそうにない。
そしてとうとう翔吾の説得はむなしく終わり、早苗は家の外に出てしまった。らしい。
電話で早苗が実況し始めた。
「すごい。すごい風だ。むべ山風を嵐といふらむ……」
「百人一首を詠んでいるひまがあったら戻れ」
「いや、いけるところまで僕は行くぞ。そう、目的地は君の家だ」
「なんで俺の家なんだよ」
すでに関門は一つ突破された。次はこの石も小枝もバケツもとんでいく危険極まりない道である。電話越しに聞こえる声は、風の音でほとんどかきけされた。今どんな目に会っているのか翔吾の気はしれない。そしてどうしてうちに来るのか。一つも理由がわからなかった。
「なぜって、この前ショーゴくんに貸す予定だった参考書を渡しにいきたいからだよ。君この前古典で何かいい参考書や問題集はないかって言っていたじゃないか。模試も近いから今日までに届けないと君が困るだろう?」
そう聞いて、ため息が漏れた。
確かに試験は近い。学校が爆発するなり何か起きない限りは土曜日に模擬試験がひらかれるはずだ。古典にあまり自信のない翔吾は少しでも勉強したいとは思っていた。そこで古典が好きで成績の良い早苗に参考書か問題集のような、古典の勉強になるものはないかと聞いた。
いくつか翔吾くんが好きそうなのがあるから持ってくるよ。
なんて話をしていたのが金曜日。そして今日が日曜日。次の土曜日は約一週間くらいだ。そう思うと早めに渡しておきたいと思う気持ちはわからなくはない。
でもそれはこんな風の強い日にわざわざ出るほどのことかと聞かれたら、首を横に振らざるを得ない。そこまでしなくていい。そんなことのためにこんな状況で外に出るんじゃないと声に出して言いたかった。半ば声に出していたが。
「いや、でも、これくらいの風なら傘さえ刺さなければ大丈夫だと思うし、僕も君の家にいって話がしたいし、まずこの風の日に出るのはすごいワクワクしているというか、面白そうだと思ってだな……」
「……面白そうが本音だろうが」
「あはは。バレたか」
「……わかったよ。お前が外に出たかったのは。でも古典の参考書は濡れて使い物にならなくなる可能性があるからそっこー帰れ」
「でもそれだと君が勉強できなくないか?」
「電話口でお前が教えろ。それなら良いだろ」
「──ショーゴくん、それは教えてもらう人の態度ではないと思うんだが、どう思うんだい?」
「頼む。電話で俺に古典を教えてくれ」
その言葉を聞いて電話の向こうから「うん」という声が聞こえてきた。風の音が急にやみ、はっきりとした早苗の声が聞こえてくる。
「それなら僕に任せたまえ! 君が古典が大好きだって言うようにしてみせよう」
楽しそうに弾んだ声。それを聞いて翔吾はほっと、小さく息をついたのだった。
—————
途中からお題に沿った内容じゃなくなったような気がしますが、気にしてはいけない。
早苗「担任が急に失踪したらしいんだが、ショーゴくん何か知っているかね?」
翔吾「なんか家庭の事情ってやつらしい」
早苗「家庭の事情かあ。それなら仕方ない」
翔吾「さみしいのか?」
早苗「そりゃあね。あの怒声が今日からもう聞こえないって思うと、やっぱり物足りないと感じるよ」
桜が散って、風が薫って、まだ梅雨にはならない爽やかな新緑の候の頃のこと。
昼休憩で同級生とお弁当を広げて話しているときに、こんな話が出た。
「宮川って、キスする時目を瞑らなそうじゃない?」
誰かが言い出した言葉に数名の女子から「あー、わかる」と声があがった。確かに目を瞑らなそう。あとガン見してそう。なんならしかめっ面のままキスしてない。うわありうる。そんな感じでぽんぽんと話が進む。
大変生々しい話だなあと思いながら、僕はお弁当に入っていたウインナーを箸でつまんだ。まあでも仕方ないだろうとも思う。これは所謂恋ばななので。
女子というものは、二人以上集まれば恋ばなが発生するというのは世の常である。そもそも彼女らはうらわかき乙女である。恋の話の一つや二つ、聞かないしない話さない、なんてことはないのである。
なのでグループで集まって弁当を食べながら話をするお昼時は、恋ばなが飛び交うなんてことは、火を見るよりも明らかだろう。実際彼女たちはいつも恋ばなをしていることが多い。
先週は担任の先生は恋人の尻に敷かれてそうとか言われていたし、その前はクラスで一番イケメンの尾道くんは手を繋ぐのとかわけ無さそうとかそんな感じの話をしていた。他にも隣のクラスの永倉くんは付き合ったら大事にしてくれそうだとか、橋田くんとは気疲れしないで話ができそうとかそんな話も飛び交っていた。
要するに、今日はたまたま彼、宮川翔吾がターゲットにされただけである。他の人たちよりずいぶんと生々しいなあと思わなくもないが、それでも、別に気にするほどではない。
ちなみに噂の張本人は現在、担任に呼び出されて不在である。鬼の居ぬ間になんとやらだ。
「で、そのあたりどうなんですか早苗さ~ん」
隣に座って話を聞いていた女子が肘で僕をつついた。僕と翔吾くんが行動を共にしていることが多いことを彼女たちは知っている。というかクラスの名物になっているらしい。いささか不本意だが破天荒ではた迷惑な奴とお目付役の関係だと担任からも言われている(文面からして僕がはた迷惑な奴ってことじゃないか! 僕はただ面白そうだからと色々やっているだけだぞ!)。
話を戻して。とにかく誰よりも翔吾くんの近くにいる人間がここにいるのだ。彼女たちは翔吾くんの浮ついた話を聞きたかったのだろう。
でも、そうだなあ。キスかあ。
僕は一瞬考え込むように首を捻ると、手に持っていた赤いお弁当箱に目を落とした。
「ショーゴくんがキスしたところ、見たことないから分からないなあ」
正直、質問に答えられそうにないと言ったところが僕の見解である。まず、確かに僕らは仲良しではある。だが恋人がいるとか好きな奴ができたなんて話はしたことがない。興味がなかった。そして僕は興味がないことにはとことん無頓着な人間である。なので僕は彼に恋人がいるか知る機会は今まで一切なかったのだ。
そもそも彼は朴念仁なところがあるので、恋愛にうつつを抜かすようなことがあるだろうか。まずそこからじゃないだろうか。
だが僕のこの返答は、花も恥じらうをすっかり通り越して、興味と欲望と好奇心に突き動かされた乙女たちには大層不服だったらしい。
見たことがない? と眉根を寄せて異なものを見たと言いたげな顔をしたのだった。
「ないなあ。まず僕、彼に恋人がいるのかどうかもわからないし」
僕の言葉を最後に教室がしん、と静かになった。周囲を見ると動いたり話をしていたはずの同級生が全員、僕の方に目を向けて固まっている。表情も硬い。なんなら血の気が引いた白い顔を見せているものまでいる。
自分はなんか変なことを言っただろうか。居心地が大変悪い。
「あのさ、キス、したことない?」
「誰と誰が?」
「あんたと宮川」
「それは、ないなあ」
「手とか繋いでいるよね?」
「繋いでいるね」
「この前肩を組んで歩いていたよね?」
「昨日もしたかな」
「お姫様抱っこされてなかった?」
「あれは倒れた僕を運ぼうとしただけだよ?」
「お付き合い、してるんですよね……?」
お付き合い、その言葉が飛び出てきて僕はそういうことかと納得した。
要するに、彼らは僕らが付き合っていると思って話をしていたわけだ。だからキスしたところを見たことがないという僕の言葉に付き合ってるのにキスしたことがないの? なんて異なものを見た気分になったし、恋人がいるかわからないという言葉に驚いて静かになったのだ。
理由がわかってしまえばなんのことはない。僕はすかさず聞かれた質問に答えたのだった。
「君たちは勘違いしているようだけど、僕はショーゴくんと付き合ってないぞ」
「ハァー!?」
教室内に大声が響く。
「ウソでしょ。あんたたち絶対付き合ってると思ったんだけど」
「むしろアレで付き合ってないのはおかしいでしょ」
「いやいやいや、あんたら絶対付き合ってると思ってたのよ。それなのに付き合ってない? なんで?」
何故か教室が阿鼻叫喚な状態である。
一人は頭を抱え、もう一人は机を叩き、隣に座っている女子に至っては、僕の肩をぐらぐらと大きく揺さぶりだした。みんながみんなぶつぶつと独り言や奇声をあげはじめ、誰かがちょっと宮川を呼んで来いと廊下に向かって話しかけていた。
え、こわ。何。どういうこと。僕は困惑しながら彼らの奇行を見つめていた。クラスの人間がここまでご乱心になったところは今まで見たことがない。そもそも生まれてから十六、七年、一つもない。そしてクラス全員が一斉にご乱心タイムに入るという貴重な体験に僕は乗り遅れてしまったのである。いや、引き金はおそらく僕だろうし、このご乱心タイムもおそらく僕のせいなんだが、そこまで変なことを言っただろうか。というか、これ、もしかして今僕だけが正気なんでは? うわ、何それ面白い。でもとりあえずそろそろどうにかしたほうが良さそう。
「あの──」
そう僕が彼らの奇行をどうにかしようと声をかけた時、
ガラリ
突然教室の扉が開いた。見るとそこには翔吾くんが担任から渡されたプリントだろう紙のたばを持っていて、その姿が見えた瞬間、奇声がピタリとやんで静かになった。そしてみんな自分がしていたことを忘れたかのようにいつも通りに話し始めた。
僕は周囲の人間を見て面食らった。え、本当にまじで、なんだったの?
***
と、いうのを今ちょうど思い出していた。放課後の、誰もいない教室のことである。
今教室にいるのは僕と翔吾くんの二人だけだ。同級生のみんなは早々に部活へといってしまった。そして隣にいる翔吾くんは、いつも通り家から持ってきた本を読んでいるところである。パラ、パラ、とやけにゆっくりとした音を立ててページが捲られているところを見るに、集中しているのだろう。
横目で彼の顔を見ると、眉間に皺をよせて口を尖らせた状態で固定されていた。あ、この顔でキスしてそう。そんな事をふと思った。というか多分、女子たちが言っていたのはこの事なんじゃないだろうかとさえ思えてきた。
「ショーゴくん、キスをしないか?」
と、言うわけで、面白そうなら即行動、善は急げがモットーの僕は、翔吾くんにそんな提案をしたわけである。
しかめ面でもするかなと思ったら、案の定、彼は渋い顔をした。
読んでいた本をとじて「急になんだよ」と言う低い声は、晴天の黄色い太陽がのぼる爽やかな雰囲気とはひどく対照的で、それなのにどこか彼らしい。僕は質問に答えた。
「いや、なに。少し好奇心がくすぐられたんだよ。君は人にキスをするとき、どんな風にするのかってね」
そう言って、彼がいなかった昼時の話を僕は聞かせてやる。クラスの人間が僕の言葉で阿鼻叫喚になったところで、彼はどこかいらだたしげに眉をひそめだしてため息をついたので僕は思わず笑ってしまった。僕の声が教室に響く。
「君がキスをするとき本当に目を瞑らないやつなのか知りたくなった」
で、どうだい? してくれる気になったかい?
そう言うと翔吾くんはしかめ面のまま答えを寄越す。
「……好奇心は猫をも殺すっていうが、それだけはやめとけ」
どうもあまり気乗りしないらしい。これにはちょっと意外だなと思った。
正直、今まで僕の理不尽な要求や面白そうだからと始めた不可解な行動を、ため息一つしたあとは、なんだかんだでやってくれていたのだ。いや、どちらかというと手綱を握られていたの方が近いだろう。初めて会ったときに反復横とびをしようとして止められた記憶から(それでも決行したら担任に怒られた)、彼はいつも僕があまりに暴走するようならいさめ、他の道を提案し、面倒を見てくれた。その彼が代案も何も出さずただやめとけと言うだけなのだ。
だがこれはある意味、仕方ないのかもしれない。だって僕らは付き合っていない。彼は結構真面目で堅物なところがあるから、お付き合いのない人間とのキスは拒むだろう。無理からぬことだ。そして、そこは折り込み済みだった。
「僕らが恋人じゃないからか? それならなんの問題もないよ。今付き合って数時間後に別れた。これでいいだろう? 学生らしいかわいらしい恋愛じゃないか」
そう。学生というのは無責任にもこんなことができる。それを僕は知っている。同級生の女子たちがそんな話をしていたからね。
告白して、付き合って、やっぱり合わなかったで元通りになっている人たちは何人もいる。彼女たちにできるのだ。自分だってできるはずだ。
「……」
それでも翔吾くんはうんと首を縦に頷いてはくれない。黙ってじっ、と、うかがうように僕の瞳を見るだけ。僕はほとほと困り果ててしまった。ただ、彼がどんな風にキスをするのか、知りたいだけなのに。
僕が弱っているときに手をひいてくれた君。退屈だから何かないかと聞くとお前の心がつまんねえ時は俺が何をしてもつまんねえって言うだろと諭してくれた君。夜の天体観測も答案用紙の紙飛行機もなんだって付き合ってくれて、色々な表情をみせて、誰よりも君の事を僕はよく知っている筈なのに、ただ一点、恋愛というものに関してだけは、僕に見せようとしない。なんだか無性に腹が立った。それだけは僕に見せないと言っているように聞こえるから。
「……早苗」
見つめ合う僕らの間にいた沈黙を、破ったのは彼からだった。ギシ、と椅子がなる音がして、彼が立ち上がったかと思うと、僕の腕が誰かの手に引っ張られた。彼が僕の手を引っ張ったのだということに気がついたときには、僕は彼の肩口に顔を埋める状態になっていた。
「え」
思わず声が出る。遠くに聞こえる掛け声。暗い視界。絹ずれの音。やけにあつい自分ではない誰かの体温と、力強く打つ心音。
「え、あの──」
ドッ、ドッ、と聞こえる音が、軽い衝撃として僕の体に伝わってくる。いつの間にか後頭部と腰の方に彼の腕が回っていて、しかもその腕がやけに力をいれているものだから、僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。
お姫様抱っこをされたことも僕自ら肩を寄せて歩いた事だってある。自分たちはなんだかんだで近い距離にいた筈だ。
それなのに、それなのに、だ。なんで吐息がかかってくすぐったいとか心音がうるさいとか、今まで感じなかったものを僕は今感じているのだろう。
僕が静かに大人しくされているのに気がついて、翔吾くんはさらに腕に力をこめる。それから、一度ゆっくり、ため息みたいな息を吐き出して──
「あおるな」
そう言って、とん、とん、と、二回、僕の髪を掻き分けた指でうなじを叩いた。
その声が、その指先が、僕が今まで見ていなかった、おそらく彼が隠していた何かを思い知らされたような気がして、いてもたってもいられなかった僕は、彼を突き飛ばしたあとに、奇声を上げて走り出した。
───
思ったより長くなってしまった。
割りと無茶な事をいっても、ゆるしてくれる彼の事だ。真夜中に急に会いに行ったところで叱ったあと、ゆるしてくれるだろう。
そう思い夜の真っ暗闇の中を僕はとてとてと歩いていた。
僕らの住んでいるところは田舎だけども、あまり星は見えない。というより、旧市街地のため田舎の中でもそこそこ栄えているのだった。なんだかんだで家がある。そして街灯がある(これで自分たちの住んでいるところを田舎だと言うと本当に街灯ひとつないところに住んでいる同級生数名が怒り出すのだが)。
星の光は、ぽつ、ぽつ、と遠くに光る街灯の赤い光が空を照らして、星を隠す。家の光もそこに加わればさらに見えにくくなる。加えて、最近は不審者や害獣対策で何か動くものがあると玄関先や家の前の灯りが点くようになった。今は月くらいしか、天の光は見えないのだ。
その中を僕は歩いて彼に会いにいく。
理由は、と聞かれたら「面白そうだから」以外にない。
だって寝ているかもしれない真夜中に急に自分の知人が訪ねて来るんだぞ。絶対面白いじゃないか。
彼は一体、どんな顔をするだろう。しかめ面をするだろうか。本当に来たのかと呆れるのだろうか。もしかすると眠っていて僕が家の近くへ行っても気が付かないかもしれない。
もし寝ていたら窓から侵入できないかな。彼の部屋は一階だったはずだから、侵入は割と簡単なはずなのだ。窓ガラスの鍵だけが心配ではあるが。
いや、はや、想像しただけで面白く感じる彼の家から自分の家までちょっと距離があるのは難点ではあるが、それすらも僕の好奇心を掻き立てる一つの道具に過ぎなかった。何事も頑張った方が、達成感は大きいからね。
僕はくふくふと笑い声を上げた。夜の道に僕の声は存外大きく響く。そもそもたまに通る車以外、僕くらいしか外にいないのだ。人気のないところだと人の声は大きく響くものだろう。
だが僕のそんな声に反応する光があった。僕が歩くずっと先、街灯がギリギリなくなる暗闇の中に、やや黄色い光がゆらゆらと揺れている。
多分誰かが懐中電灯か何かで照らしているのだ。光はちょっとずつ大きくなり、僕の方に近寄ってくる。やがてぼんやりと暗闇の中に一人の人間の姿が浮かび上がってきた。僕が会いに行こうとしていた彼、宮川翔吾その人だった。
「早苗、お前なあ……」
ハァハァと息を切らせてやってきた彼は険しい顔つきで僕を睨んだ。僕は思ってもみない展開に一瞬面食らう。
「驚いたな。ショーゴくんから来てくれるとは」
寝ていると思ったぞ。僕がそういうと、彼は僕の肩を強く掴んで低く呟いた。
「出歩くな。心配する」
あ、これは相当怒っているな。ただでさえ言葉数が少ないのに、さらに言葉を削って言い放っているんだから。
「悪かったね。真夜中に遊びに行ったらどうなるかと好奇心が募って、どうしても会ってみたくなったんだ」
そういうと、彼がなんかものすごい勢いで脱力したように感じた。というか怒りを通り越していっそ呆れたみたいだった。重いため息が夜の闇に吸い込まれ、どこかへと溶けていく。
そして数秒、彼は目を瞑った。目を再びあけた時には、まっすぐに突き刺さる剣のような瞳があった。
「次はねえ」
僕は静かに頷いた。頷くしかなかった。流石にここまで怒っている彼は出会ってからはじめてみた。ここまで強く肩を掴む彼をみたことがなかった。彼が真剣に次はないと釘を刺すなんて知らなかった。
「ごめん」
そういうと、「おう」と言い返された。もう肩を掴む手に力は入っていない。鈍い痛みがするにはするが、いつものがっしりとあたたかい手のひらの感触が布越しに伝わるだけだ。その手もやがて離れていって彼が僕の隣に立つ。これでいつも通りになった。僕はそのことに少しほっとして、彼にくっつきながら歩いた。
「それにしても、僕が真夜中に会いに行こうとしたら、心配して走ってくるなんて、僕は相当君に気に入られているんだな」
「……そうだよ」
だから待ってろ。
それを聞いて僕は思わず「え」と驚いた声をあげてしまった。僕は数分くらい、何も言えなかった。二人分の足音が、なんかやけにうるさかった。
「……会いし来いしと 月が望めば 君は来るのか 真夜中に」
「……あいしこいしと 月は追うけど 追いかけたいは こちらの方」
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登場人物に都々逸詠ませたくて書こうとしたのですが、まず都々逸を考えることが私には難しかった。
「愛があればなんでもできると思う?」
僕がそう聞くと、彼は不思議そうな顔をして言うんだ。
「俺たちの関係ってそんなんだったか?」って。
それを言われて、僕はなんて思ったと思う?
「確かに」と思ったんだ。
僕たちの関係は、愛だとか恋だとか名前でくくれるようなものじゃなかった。だから、愛があればなんでもできるかって質問は不適切だった。
じゃあ何が適当な質問かって言ったら、多分これなんだよ。
「僕がお願いしたら、なんでもしてくれる?」
そう聞いたら、彼はため息をついた。
「俺ができるものだけな」