長月より

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 桜が散って、風が薫って、まだ梅雨にはならない爽やかな新緑の候の頃のこと。
昼休憩で同級生とお弁当を広げて話しているときに、こんな話が出た。

「宮川って、キスする時目を瞑らなそうじゃない?」

 誰かが言い出した言葉に数名の女子から「あー、わかる」と声があがった。確かに目を瞑らなそう。あとガン見してそう。なんならしかめっ面のままキスしてない。うわありうる。そんな感じでぽんぽんと話が進む。

 大変生々しい話だなあと思いながら、僕はお弁当に入っていたウインナーを箸でつまんだ。まあでも仕方ないだろうとも思う。これは所謂恋ばななので。

 女子というものは、二人以上集まれば恋ばなが発生するというのは世の常である。そもそも彼女らはうらわかき乙女である。恋の話の一つや二つ、聞かないしない話さない、なんてことはないのである。
 なのでグループで集まって弁当を食べながら話をするお昼時は、恋ばなが飛び交うなんてことは、火を見るよりも明らかだろう。実際彼女たちはいつも恋ばなをしていることが多い。

 先週は担任の先生は恋人の尻に敷かれてそうとか言われていたし、その前はクラスで一番イケメンの尾道くんは手を繋ぐのとかわけ無さそうとかそんな感じの話をしていた。他にも隣のクラスの永倉くんは付き合ったら大事にしてくれそうだとか、橋田くんとは気疲れしないで話ができそうとかそんな話も飛び交っていた。
 要するに、今日はたまたま彼、宮川翔吾がターゲットにされただけである。他の人たちよりずいぶんと生々しいなあと思わなくもないが、それでも、別に気にするほどではない。

 ちなみに噂の張本人は現在、担任に呼び出されて不在である。鬼の居ぬ間になんとやらだ。

「で、そのあたりどうなんですか早苗さ~ん」

 隣に座って話を聞いていた女子が肘で僕をつついた。僕と翔吾くんが行動を共にしていることが多いことを彼女たちは知っている。というかクラスの名物になっているらしい。いささか不本意だが破天荒ではた迷惑な奴とお目付役の関係だと担任からも言われている(文面からして僕がはた迷惑な奴ってことじゃないか! 僕はただ面白そうだからと色々やっているだけだぞ!)。

 話を戻して。とにかく誰よりも翔吾くんの近くにいる人間がここにいるのだ。彼女たちは翔吾くんの浮ついた話を聞きたかったのだろう。

 でも、そうだなあ。キスかあ。

 僕は一瞬考え込むように首を捻ると、手に持っていた赤いお弁当箱に目を落とした。

「ショーゴくんがキスしたところ、見たことないから分からないなあ」

 正直、質問に答えられそうにないと言ったところが僕の見解である。まず、確かに僕らは仲良しではある。だが恋人がいるとか好きな奴ができたなんて話はしたことがない。興味がなかった。そして僕は興味がないことにはとことん無頓着な人間である。なので僕は彼に恋人がいるか知る機会は今まで一切なかったのだ。

 そもそも彼は朴念仁なところがあるので、恋愛にうつつを抜かすようなことがあるだろうか。まずそこからじゃないだろうか。

 だが僕のこの返答は、花も恥じらうをすっかり通り越して、興味と欲望と好奇心に突き動かされた乙女たちには大層不服だったらしい。
 見たことがない? と眉根を寄せて異なものを見たと言いたげな顔をしたのだった。

「ないなあ。まず僕、彼に恋人がいるのかどうかもわからないし」

 僕の言葉を最後に教室がしん、と静かになった。周囲を見ると動いたり話をしていたはずの同級生が全員、僕の方に目を向けて固まっている。表情も硬い。なんなら血の気が引いた白い顔を見せているものまでいる。
自分はなんか変なことを言っただろうか。居心地が大変悪い。

「あのさ、キス、したことない?」
「誰と誰が?」
「あんたと宮川」
「それは、ないなあ」
「手とか繋いでいるよね?」
「繋いでいるね」
「この前肩を組んで歩いていたよね?」
「昨日もしたかな」
「お姫様抱っこされてなかった?」
「あれは倒れた僕を運ぼうとしただけだよ?」
「お付き合い、してるんですよね……?」

 お付き合い、その言葉が飛び出てきて僕はそういうことかと納得した。

 要するに、彼らは僕らが付き合っていると思って話をしていたわけだ。だからキスしたところを見たことがないという僕の言葉に付き合ってるのにキスしたことがないの? なんて異なものを見た気分になったし、恋人がいるかわからないという言葉に驚いて静かになったのだ。
 理由がわかってしまえばなんのことはない。僕はすかさず聞かれた質問に答えたのだった。

「君たちは勘違いしているようだけど、僕はショーゴくんと付き合ってないぞ」
「ハァー!?」

 教室内に大声が響く。
「ウソでしょ。あんたたち絶対付き合ってると思ったんだけど」
「むしろアレで付き合ってないのはおかしいでしょ」
「いやいやいや、あんたら絶対付き合ってると思ってたのよ。それなのに付き合ってない? なんで?」

 何故か教室が阿鼻叫喚な状態である。
 一人は頭を抱え、もう一人は机を叩き、隣に座っている女子に至っては、僕の肩をぐらぐらと大きく揺さぶりだした。みんながみんなぶつぶつと独り言や奇声をあげはじめ、誰かがちょっと宮川を呼んで来いと廊下に向かって話しかけていた。
 え、こわ。何。どういうこと。僕は困惑しながら彼らの奇行を見つめていた。クラスの人間がここまでご乱心になったところは今まで見たことがない。そもそも生まれてから十六、七年、一つもない。そしてクラス全員が一斉にご乱心タイムに入るという貴重な体験に僕は乗り遅れてしまったのである。いや、引き金はおそらく僕だろうし、このご乱心タイムもおそらく僕のせいなんだが、そこまで変なことを言っただろうか。というか、これ、もしかして今僕だけが正気なんでは? うわ、何それ面白い。でもとりあえずそろそろどうにかしたほうが良さそう。

「あの──」

 そう僕が彼らの奇行をどうにかしようと声をかけた時、

 ガラリ

 突然教室の扉が開いた。見るとそこには翔吾くんが担任から渡されたプリントだろう紙のたばを持っていて、その姿が見えた瞬間、奇声がピタリとやんで静かになった。そしてみんな自分がしていたことを忘れたかのようにいつも通りに話し始めた。

 僕は周囲の人間を見て面食らった。え、本当にまじで、なんだったの?

***

 と、いうのを今ちょうど思い出していた。放課後の、誰もいない教室のことである。

 今教室にいるのは僕と翔吾くんの二人だけだ。同級生のみんなは早々に部活へといってしまった。そして隣にいる翔吾くんは、いつも通り家から持ってきた本を読んでいるところである。パラ、パラ、とやけにゆっくりとした音を立ててページが捲られているところを見るに、集中しているのだろう。
 横目で彼の顔を見ると、眉間に皺をよせて口を尖らせた状態で固定されていた。あ、この顔でキスしてそう。そんな事をふと思った。というか多分、女子たちが言っていたのはこの事なんじゃないだろうかとさえ思えてきた。

「ショーゴくん、キスをしないか?」

 と、言うわけで、面白そうなら即行動、善は急げがモットーの僕は、翔吾くんにそんな提案をしたわけである。

 しかめ面でもするかなと思ったら、案の定、彼は渋い顔をした。
 読んでいた本をとじて「急になんだよ」と言う低い声は、晴天の黄色い太陽がのぼる爽やかな雰囲気とはひどく対照的で、それなのにどこか彼らしい。僕は質問に答えた。

「いや、なに。少し好奇心がくすぐられたんだよ。君は人にキスをするとき、どんな風にするのかってね」

 そう言って、彼がいなかった昼時の話を僕は聞かせてやる。クラスの人間が僕の言葉で阿鼻叫喚になったところで、彼はどこかいらだたしげに眉をひそめだしてため息をついたので僕は思わず笑ってしまった。僕の声が教室に響く。

「君がキスをするとき本当に目を瞑らないやつなのか知りたくなった」
で、どうだい? してくれる気になったかい?

 そう言うと翔吾くんはしかめ面のまま答えを寄越す。

「……好奇心は猫をも殺すっていうが、それだけはやめとけ」

 どうもあまり気乗りしないらしい。これにはちょっと意外だなと思った。

 正直、今まで僕の理不尽な要求や面白そうだからと始めた不可解な行動を、ため息一つしたあとは、なんだかんだでやってくれていたのだ。いや、どちらかというと手綱を握られていたの方が近いだろう。初めて会ったときに反復横とびをしようとして止められた記憶から(それでも決行したら担任に怒られた)、彼はいつも僕があまりに暴走するようならいさめ、他の道を提案し、面倒を見てくれた。その彼が代案も何も出さずただやめとけと言うだけなのだ。

 だがこれはある意味、仕方ないのかもしれない。だって僕らは付き合っていない。彼は結構真面目で堅物なところがあるから、お付き合いのない人間とのキスは拒むだろう。無理からぬことだ。そして、そこは折り込み済みだった。

「僕らが恋人じゃないからか? それならなんの問題もないよ。今付き合って数時間後に別れた。これでいいだろう? 学生らしいかわいらしい恋愛じゃないか」

 そう。学生というのは無責任にもこんなことができる。それを僕は知っている。同級生の女子たちがそんな話をしていたからね。

 告白して、付き合って、やっぱり合わなかったで元通りになっている人たちは何人もいる。彼女たちにできるのだ。自分だってできるはずだ。

「……」

 それでも翔吾くんはうんと首を縦に頷いてはくれない。黙ってじっ、と、うかがうように僕の瞳を見るだけ。僕はほとほと困り果ててしまった。ただ、彼がどんな風にキスをするのか、知りたいだけなのに。

 僕が弱っているときに手をひいてくれた君。退屈だから何かないかと聞くとお前の心がつまんねえ時は俺が何をしてもつまんねえって言うだろと諭してくれた君。夜の天体観測も答案用紙の紙飛行機もなんだって付き合ってくれて、色々な表情をみせて、誰よりも君の事を僕はよく知っている筈なのに、ただ一点、恋愛というものに関してだけは、僕に見せようとしない。なんだか無性に腹が立った。それだけは僕に見せないと言っているように聞こえるから。

「……早苗」

 見つめ合う僕らの間にいた沈黙を、破ったのは彼からだった。ギシ、と椅子がなる音がして、彼が立ち上がったかと思うと、僕の腕が誰かの手に引っ張られた。彼が僕の手を引っ張ったのだということに気がついたときには、僕は彼の肩口に顔を埋める状態になっていた。

「え」

 思わず声が出る。遠くに聞こえる掛け声。暗い視界。絹ずれの音。やけにあつい自分ではない誰かの体温と、力強く打つ心音。

「え、あの──」

 ドッ、ドッ、と聞こえる音が、軽い衝撃として僕の体に伝わってくる。いつの間にか後頭部と腰の方に彼の腕が回っていて、しかもその腕がやけに力をいれているものだから、僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。

 お姫様抱っこをされたことも僕自ら肩を寄せて歩いた事だってある。自分たちはなんだかんだで近い距離にいた筈だ。

 それなのに、それなのに、だ。なんで吐息がかかってくすぐったいとか心音がうるさいとか、今まで感じなかったものを僕は今感じているのだろう。

 僕が静かに大人しくされているのに気がついて、翔吾くんはさらに腕に力をこめる。それから、一度ゆっくり、ため息みたいな息を吐き出して──

「あおるな」

 そう言って、とん、とん、と、二回、僕の髪を掻き分けた指でうなじを叩いた。

 その声が、その指先が、僕が今まで見ていなかった、おそらく彼が隠していた何かを思い知らされたような気がして、いてもたってもいられなかった僕は、彼を突き飛ばしたあとに、奇声を上げて走り出した。



───
思ったより長くなってしまった。

5/19/2023, 5:48:49 AM