あの人の帰りが遅い。繁忙期というやつだ。今の仕事は天職だと何度か口にしていた。やりたいことをやれているなら何も言うことはないが、それにしたって既に夜が深い。夕食は冷蔵庫に用意がある。風呂もすぐ沸かせる。この場に欠けているのはあと一つ。いつ帰るのか、何時になるか連絡くらい寄越せと今日一番の気持ちを込めてメッセージを送信。
(題:1つだけ)
鳥籠に入れずに放し飼いして、必ず戻ってくるその姿で愛情を確かめる。そういうやり口は悪趣味で非常識だと、籠に入れても自由に出ていく鳥本人に咎められた。それでも思うところがあったのだろう。このときからだ。帰り際の「さようなら」が「また来ます」に変わったのは。
(題:大切なもの)
うららかを通り越した気温に頭がやられた、ということにしておきたかった。通りがかったその人の後ろ姿を、何を思ったか抱き寄せてついでに顔を埋めていた。無防備な背中は思ったより温かく、あと思ったより広い。急にどうしたのかとその人は慮る。声帯が震えて顔が少しくすぐったい。こんなに素直な自分は偽物だ、嘘なのだと言って聞かせれば「そうですか」となぜか嬉しそうに笑っていた。
(題:エイプリルフール)
水をやりすぎて根腐れさせるタイプだ、と昔友人に言われたことがある。今もそうだろうか。炊いた米を手の中で整えながら考える。おにぎりなんていつ以来だろう。彼が好きだと知ってはいたが、握ったそばからそれはそれは美味しそうに頬張っていくのだからたまらない。この根は腐るどころかまだまだ水を欲している。それは都合のいい解釈だろうか。空になった皿を前にじっと見つめる目。仕方ない、と自分に言い訳をして再び炊飯器に向かう。
(題:幸せに)
不意に手が触れ合った。さっきと変わらずその人は隣で雑誌を読んでいる。スマホを操作していないこっちの左手に、その人の右手が触れた。当人は驚きも謝りもせず、視線は誌面に落としたまま。いや、よく見れば少しだけ瞳が不敵に細まっている。指先が左手の甲を、指の間をゆっくりとなぞる。まったくこの人は、何かしたいならもっとわかりやすく示してもらいたい。抗議と、それから了承の意を込めてその手を握り返した。
(題:何気ないふり)