「……そんなに見られるとさ、描きにくいって分からない?」
新島の後輩に当たる羽柴と黒柳は顔を見合わせていたずらっぽく笑った。
「えー?」
鈍い西日の差す放課後の美術部。
今日は曇り、それに加えて室内は明かりがつけられておらず、全体的に浅い暗闇をまとって少し息苦しい。
それでも彼ら彼女らの表情は濁りなく鮮やかで、口元を抑えてくすくすと笑っている。
「だって、絵を描く時の先輩大好きなんですもん。」
「そうそう、絵を描いてる時の先輩は!」
やけに強調してそう言うのは、無邪気なフリをして、綺麗なレースを被って変顔を隠す、道化の姿をしているから。
普段の姿も好きであれよ!という情けないツッコミを期待していることは丸見えなので、新島はわざと無視をした。
濃い青に濁った筆の先を筆洗へ乱暴に突っ込み、音を立てて掻き乱すと中の色は紫に変わる。
その様子さえもじっと大きな瞳で見つめる2人に、2度目のため息が零れた。
「あっ、怒った。」
「きゃー。」
背もたれのない椅子から立ち上がり、顔を何か衝撃から守るようにして両腕で覆い隠す。
あまりにも同じ動きをするものだから、2人は双子か兄妹に見えた。
「怒ってない、呆れてるだけ。大体、あんたたち部活はいいの?」
「こんな天気じゃスマッシュ決めてもいい気分にならないじゃーん。」
「僕もレポート作成とかつまんないことやらされてたから、サボっちゃった。」
羽柴はソフトテニス部、黒柳は天文学部。
そもそもとして彼らは神聖なる美術部の部員ではないのだ。
典型的な口下手で不器用な性格の新島。
今年度は新入部員の出入りが一切なく、幽霊部員を除けば部員は実質新島ひとりになってしまったことを良いことに、時間を縫っては彼女の下へ遊びに来ていた。
「怠け者に見せる絵はない。他にやることがあるなら、そっちを優先しなさい。」
「新島先輩ってば本当に真面目。人ってサーモグラフィーみたいにたくさんの色で構成されてるんだよ?たまには、なんでも投げ出して好きにやりたい時あるじゃん。」
「そうそう、もっと気まぐれにいきましょうよ。」
〈新島〉
高校3年生。限界集落部と化した美術部でもくもくと絵を描き続けている。不器用で人付き合いは苦手だが、感情の機微に敏感で、洞察力が高い。
〈羽柴〉
高校2年生。明るくいたずら好きな少女で、黒柳とともに何かしら新島に絡んでいる。ただ、絵を描く新島の姿と彼女の作品が大好きなのは事実。
〈黒柳〉
高校2年生。羽柴によく似た少年で、彼女とともによく美術室を訪れる。
「……あ、ハルサキ。」
床の上で本を読んでいた彼は、病室のドアの前で立ち尽くしていた俺に気が付くと、いつもと変わらないようにして笑顔を浮かべた。
人懐っこい感じの明るい笑顔。
死に向かっている人間のできる表情には到底見えなくて、俺はそれにどんな顔をして返せばいいのか分からなかった。
そんな俺を見兼ねてか、ヤギはこちら近づくように手招きをした。
「来てくれてありがと。やっぱり動けないと暇だからさ、会いに来てくれて嬉しい。」
「……今日は調子、いいんだな。」
「めっちゃ元気!」
両手でピースを作り、俺の目の前まで持ち上げる。
簡素な病衣の袖、その隙間から見える、青い血管の浮き出た細い腕。
具合は良さそうではあるが顔色も悪い。
ヤギの振る舞いとは噛み合わず、病魔に蝕まれている身体が見ていて痛々しく、臆病な俺は駄目だと分かって目を逸らしてしまった。
「ハルサキ?」
その声にハッとして目線を上げる。
「……ごめん。」
「はは、謝らないでよぉ。おれさ、できればみんなには普通に接してもらいたいの。入院してから痩せて、前みたいに大はしゃぎすることはできないけど、またくだらないことで笑っていたいじゃん。」
そこまで言い切って彼は自身の手首を見た。
透明の管が繋がり、数種類の液体が弱った彼の身体をギリギリに維持している。
目の下にできた濃い影は取り憑いた死神を連想させた。
ヤギは小さくため息をつくと、言いたくなさそうに、半ば諦めたような声色で呟く。
「もう、あんまり時間ないし。」
半年前、ヤギは倒れた。
俺を含む友人たちがそれぞれ忙しくしており、互いに頻繁な連絡も取れずにいた頃だった。
天涯孤独の彼はしばらくの間不調を誰にも相談できず、気が付いた時にはもう手の施しようがなくなっていた。
今だって気休め程度の緩和ケアを受けているだけに過ぎない。
ヤギはもう死ぬ人間。
それはどうしても変えられない事実だ。
「でもさ、だからこそ最期くらいはたくさん笑ってないと、勿体ないよ。ほらハルサキも、にこにこー。」
「……無理だよ。俺、お前みたいに切り替えられない。」
ずっと不思議に思っている。
どうして死ぬとわかっていて、彼は嘘でも笑顔を絶やさずにいられるのだろう。
いなくなるんだぞ、この世から。それも永遠に。
もしも俺が彼の立場だったら、唐突に失われた本来であれば掴めただろう未来をただ切望し、それでも変わらない現実に悲観して、全て投げ出したくなってしまっていたに違いない。
でもヤギは見たところ、死ぬことを受け入れてしまっている。
自分とは違い過ぎる冷静さに、俺はもはや一種の神秘を感じていた。
「……じゃあ、ひとつ頼まれ事してくれる?」
ヤギは少し神妙な声でそう言った。
軽く俺の腕を取って引っ張り、ベッドのサイドへ座らせる。
とん、と骨ばった指先を俺の胸へ直接突き立てた。
「そこに……そこにある全部のうちの、2か3くらいの割合で、おれの居場所をつくって。」
「居場所?」
「そう。おれがこれから死んじゃっても、形を変えて生き続けられるためのところ。」
それでもなんだか意味が上手く掴めなくて、俺は次のヤギの言葉を待つ。
「おれは確かに死ぬ。だけど、さっぱり消える訳じゃない。おまえの目は確かにおれを映して、おまえの耳は確かにおれの声を聞いた。おれが生きていたって証拠、おまえは全部持ってる。」
ヤギは、この瞬間も俺はヤギのことを体で記録しているのだと付け足した。
スピリチュアルか、そう一瞬考えたが、多分そういうニュアンスの話ではない。
彼は俺の精神性に話しかけている。
「つまりは、ハルサキの心次第でおれってまだまだ生きるの。ハルサキだけじゃないよ?シンヤさんも、コトも、みんながおれのこと考えてくれてる時、おれはその場に留まることができる。」
俺の胸に突き立てられた人差し指で、ヤギは徐ろにハート型をなぞり、それを細い糸で繋げるかのように自分の心臓位置へ持っていった。
「毎日じゃなくていい。流れ続ける日常の中、ふと感情に取っ掛かりができた一瞬でいい。どうかその時だけ、その時間だけおれのために使って。」
「……それが、お前がまだ生きているという理由になるから。」
「そう!」
〈ハルサキ〉
28歳の会社員。温厚だが優柔不断、肝心なところでいつも勇気を出せない自分が嫌い。
〈ヤギ〉
25歳。ハルサキの友人で、重病を患っている。明るく快活に振る舞う。
「おれね、ほんとは魔法使いなの。」
橋の上で川を眺めていたら、隣にいる入江が言った。
唐突だったが特に驚くことでもない。
魔法使いなんて意外とどこにでもいるし、入江の持つ独特な、淡いドロドロとしたバリウムのような雰囲気から、そうなのではないかと予感はしていた。
「どんな魔法が使えんの。」
率直に気になったことを聞いてみると、入江は俺がそう言うだろうと分かっていたように眉を寄せて笑った。
笑ったというか微笑んだ。
俺は入江が心から楽しそうに笑っているところを見たことがない。
そいつはそっと俺の方へ手を伸ばし、左手の付け根に触れる。
互いの胸の高さまで腕ごと持ち上げると、もう片方の手で俺の肩から手のひらまでをなぞった。
何かが通り抜ける感覚がしたけど、嫌な感じじゃない。
血とはまた別の似通った液体が、肉の内側から汚れを洗浄していくような気分。
夏の暑い日に麦茶が喉元をくぐっていくあの感じ。
俺は手首のボタンを外してシャツを肘上までめくった。
「おあ、すっげえ。」
きれいな日に焼けた肌色が出てきた。
何がすごいかって、そこにあった筈の紫や赤黒に染みる点々の痣が消えていたのだ。
何年経っても色褪せないものもあったのに。
「回復魔法?すげえじゃん、ヒーラーじゃん。」
傾いた夕日に腕をかざし、くるくると回っていろいろな光の差し加減から見てみる。
そしてちゃんと幻ではないことが分かる。
魔法使いは案外どこにでもいると言ったが、俺自身はこうして間近で魔法を見る機会は今までになかったので、初めての体験に心の内が興奮した。
入江は相変わらずにこにこしていた。
「ヒーラー、ヒーラーね。たしかにいい響きだけど、ほんとはちょっと違う。」
「じゃあなんなの。」
「修復魔法。」
〈俺〉
高校生。入江の友人。不幸を不幸と思えない精神性を持つ。
〈入江〉
高校生。修復の魔法が使えるらしい。