「……あ、ハルサキ。」
床の上で本を読んでいた彼は、病室のドアの前で立ち尽くしていた俺に気が付くと、いつもと変わらないようにして笑顔を浮かべた。
人懐っこい感じの明るい笑顔。
死に向かっている人間のできる表情には到底見えなくて、俺はそれにどんな顔をして返せばいいのか分からなかった。
そんな俺を見兼ねてか、ヤギはこちら近づくように手招きをした。
「来てくれてありがと。やっぱり動けないと暇だからさ、会いに来てくれて嬉しい。」
「……今日は調子、いいんだな。」
「めっちゃ元気!」
両手でピースを作り、俺の目の前まで持ち上げる。
簡素な病衣の袖、その隙間から見える、青い血管の浮き出た細い腕。
具合は良さそうではあるが顔色も悪い。
ヤギの振る舞いとは噛み合わず、病魔に蝕まれている身体が見ていて痛々しく、臆病な俺は駄目だと分かって目を逸らしてしまった。
「ハルサキ?」
その声にハッとして目線を上げる。
「……ごめん。」
「はは、謝らないでよぉ。おれさ、できればみんなには普通に接してもらいたいの。入院してから痩せて、前みたいに大はしゃぎすることはできないけど、またくだらないことで笑っていたいじゃん。」
そこまで言い切って彼は自身の手首を見た。
透明の管が繋がり、数種類の液体が弱った彼の身体をギリギリに維持している。
目の下にできた濃い影は取り憑いた死神を連想させた。
ヤギは小さくため息をつくと、言いたくなさそうに、半ば諦めたような声色で呟く。
「もう、あんまり時間ないし。」
半年前、ヤギは倒れた。
俺を含む友人たちがそれぞれ忙しくしており、互いに頻繁な連絡も取れずにいた頃だった。
天涯孤独の彼はしばらくの間不調を誰にも相談できず、気が付いた時にはもう手の施しようがなくなっていた。
今だって気休め程度の緩和ケアを受けているだけに過ぎない。
ヤギはもう死ぬ人間。
それはどうしても変えられない事実だ。
「でもさ、だからこそ最期くらいはたくさん笑ってないと、勿体ないよ。ほらハルサキも、にこにこー。」
「……無理だよ。俺、お前みたいに切り替えられない。」
ずっと不思議に思っている。
どうして死ぬとわかっていて、彼は嘘でも笑顔を絶やさずにいられるのだろう。
いなくなるんだぞ、この世から。それも永遠に。
もしも俺が彼の立場だったら、唐突に失われた本来であれば掴めただろう未来をただ切望し、それでも変わらない現実に悲観して、全て投げ出したくなってしまっていたに違いない。
でもヤギは見たところ、死ぬことを受け入れてしまっている。
自分とは違い過ぎる冷静さに、俺はもはや一種の神秘を感じていた。
「……じゃあ、ひとつ頼まれ事してくれる?」
ヤギは少し神妙な声でそう言った。
軽く俺の腕を取って引っ張り、ベッドのサイドへ座らせる。
とん、と骨ばった指先を俺の胸へ直接突き立てた。
「そこに……そこにある全部のうちの、2か3くらいの割合で、おれの居場所をつくって。」
「居場所?」
「そう。おれがこれから死んじゃっても、形を変えて生き続けられるためのところ。」
それでもなんだか意味が上手く掴めなくて、俺は次のヤギの言葉を待つ。
「おれは確かに死ぬ。だけど、さっぱり消える訳じゃない。おまえの目は確かにおれを映して、おまえの耳は確かにおれの声を聞いた。おれが生きていたって証拠、おまえは全部持ってる。」
ヤギは、この瞬間も俺はヤギのことを体で記録しているのだと付け足した。
スピリチュアルか、そう一瞬考えたが、多分そういうニュアンスの話ではない。
彼は俺の精神性に話しかけている。
「つまりは、ハルサキの心次第でおれってまだまだ生きるの。ハルサキだけじゃないよ?シンヤさんも、コトも、みんながおれのこと考えてくれてる時、おれはその場に留まることができる。」
俺の胸に突き立てられた人差し指で、ヤギは徐ろにハート型をなぞり、それを細い糸で繋げるかのように自分の心臓位置へ持っていった。
「毎日じゃなくていい。流れ続ける日常の中、ふと感情に取っ掛かりができた一瞬でいい。どうかその時だけ、その時間だけおれのために使って。」
「……それが、お前がまだ生きているという理由になるから。」
「そう!」
〈ハルサキ〉
28歳の会社員。温厚だが優柔不断、肝心なところでいつも勇気を出せない自分が嫌い。
〈ヤギ〉
25歳。ハルサキの友人で、重病を患っている。明るく快活に振る舞う。
3/27/2024, 12:30:14 PM