七夕綺想曲
電燈に煌々と照らされた商店街には誰もいなかった。残業終わりのサラリーマンが帰ってくる時間だから当然ではあるが。
街中に散りばめられた笹が、様々な色で着飾っていた。一体何事かと思えば、どうやら今日は七夕だったらしい。
赤、青、黄色、ピンク……数え切れないほどの色の短冊が、笹をグニャリと曲げている。中には折り紙の飾りなんて洒落たものを付けた笹もあり、どれほど多くの人がこの行事を楽しんだのかがみてとれた。
ふと立ち止まり、水色の短冊を手に取る。拙い字で
「織姫と彦星がずっと一緒にいられますように。」
と、そう書かれていた。
そういえば、自分が子供の頃にもこんなことを願っていた子がいたなと思い出す。今考えれば、彼らの自業自得にも近い教訓のような物語にも思えるソレだが、幼子たちには悲しい結末として残るようだ。
確かに自業自得だが、半永久的に続く彼らの時の中で、会えるのが一年に一回というのは少し可哀想だとも思う。伝承に口を出すのは野暮かもしれないが、何百年と語り継がれる中で、彼らはまだ許されていないのだ。
人生における大部分を占めていた仕事を忘れてしまうくらい、鮮やかで燃え上がるような恋。やっと手に入れた幸せを、自分の星を、彼らはこの日しか見ることが許されない。それが酷く寂しく思えた。
少し出遅れたが、赤い短冊に願い事を書いた。
「織姫と彦星が、少しでも長く隣にいられますように。」
影響を受けすぎかとは思うが、給料upとか書くよりは風情があるだろう。
大人という身長を生かし、何よりも上に吊るしあげる。どうか彼らを隔てた神がその罪をお許しになるようにと祈って。そして気がつく。ベガとアルタイルが、織姫と彦星がこの満点の星空から消えている。忽然と、まるで初めからいなかったかのように。
愛しい彼と固く手を繋ぎ、橋から飛び降りた。後悔は無い。例え死んでも、私達が離れることは無いのだから。
私には機織りしか無かった。それだけで十分だった。それなのに、お父様が彼と、あの輝かしい星と出会わせてしまったから。私の目は焼かれてしまった。
きっとこれはお父様の3つの過ちの1つで、私たちの重い罪。私たちはこの世界で、長い1年のたった1日しか出会えない。
それなら永遠にしてしまいましょう。私たちを隔てるこの川の、奥底へ沈んでしまいましょう。水が冷たいけれど、流れる星が痛いけれど、私たちなら大丈夫。ずっと隣にいるのですから。
水にも慣れて、目を開けた。私に見えるのは彼だけで、あとはずっと続く暗い闇。それが少し、悲しかった。
手を繋いで、離さず、数えられない程の時間が経った頃、ふと、赤い何かが目に入った。それはこの闇じゃないと気がつけないほど、小さく微かな光。愛おしくて、暖かい。それが消えないうちに、手を伸ばした。
落ちている。激しい風が私たちを逆撫でる。その風に逆らうように、もう一度目を開けた。飛び込んでくるのは煌々と輝く世界だった。見たこともないほど高い建物と、灯り続ける光。全く知らない鮮やかな世界。
その光の中でも強い赤い光は次第に近くなっていく。そしてそれが、笹に括られた短冊から発していると気がついた時、地面は目の前だった。
ガラガラと瓦礫の崩れる音がする。ベガとアルタイルが消えると同時に落ちてきた何かは商店街の天井を破壊し、すぐ近くの広場に不時着した。
その瞬間は死を覚悟したが、意外にも被害は少なかったようで、広場が半壊したら程度で済んだようである。
広場には人がいた。見知らぬ男女が2人、手を固く結びあって気絶しているようだ。その2人を見た瞬間、確信した。
「織姫と彦星が落ちてきた。」
26100光年先の願いに誘われ、心中に失敗した恋人たちの話。
天の川心中
ただ、隣に居たかったのです。ただ織り続けていた私の前に現れた輝かしき恒星、その隣に。
だから、逃げてしまいましょう。私たちを隔てる川のその下へ、沈んでしまいましょう。
私達一緒なら何も怖くはないのですから。
ある年の7月7日、なんの予兆もなくベガとアルタイルが空から姿を消した。まるで初めから存在しなかったかのように。
「これからの七夕はどうなるんだろうな。」
屍体に口なし
彼は桜の木の下で、一心不乱に地面を掘っている。どうして掘っているのか、なんど聞いても教えてはくれない。
ただただ、私には分からない何かを探して、掘り続けるのみである。
その桜の木は、私達が青春を過ごした高校の校庭に生えていたものだった。何十年と昔から若人の日々を見守ってきたソレは今も変わらず鎮座している。変わったのはその周囲だった。時代の変化によって必要とされなくなってしまった懐かしき校舎は打ち捨てられ、忘れ去られた。誰も覚えていないモノなんて弔いを待つ野ざらしの屍体と同じだ。私達の記憶に残っているものは風化し、唯一その存在を示せるのは怪しげな美しさを称えるその桜のみである。
桜色の花弁が混ざり湿った土はうずたかく盛られ、穴の深さを示している。その山が10センチには届こうかという程になっても彼は満足しないようで、その手が止まることは無い。放っておかれるだけの透明な存在となった私に出来ることは、彼が掘っている理由を探すだけだ。
といっても、こんな寂れた廃校舎に何かお宝がある訳でも、穴の中に隠れようとしている訳でも無いようで。私の推理は真相に辿り着く前に崩壊した。
突如カアンと軽い音が響いた。どうやらそれは穴の中から鳴ったらしい。彼の掘る手が期待に満ち、更に早くなる。私もこの無限に続くかと思った退屈に終止符が打たれると思うと心が踊った。私が辿り着けなかった真相を知ろうと穴に近づく。1歩、また1歩と近づく中でふと
「桜の木の下には屍体が埋まつてゐる!」
なんて言葉を思い出した。
読書が苦手だった私は正反対な彼の受け売り知識しかないが、確か梶井基次郎だとか言う人の小説の冒頭だったはずだ。桜の木の美しさの真相を知ってしまった男の話と彼は言っていた。その美しさに狂わされてしまった哀れな男の、独白だと。
もしその男が彼だとしたらどうしようか。この桜の美しさに狂わされ、その下にあるものを探しているとしたら、もしソレが、屍体だったとしたら。あの音が肉の溶けてあらわになった骨の当たる音だとしたら。
いつもなら馬鹿げているの一蹴するはずの考えが、頭から離れない。あんなに知りたかった真実が、怖くて仕方がない。
悩んでいるうちに、彼はソレに辿り着いてしまったらしい。穴に手を突っ込み、恍惚の表情を浮かべる。そして土に塗れたそれを一気に引き上げた。
それはなんてことの無い、金属でできたお菓子の箱だった。私がよく食べていたクッキーの、シンプルなデザインが酷く懐かしい。屍体でなかったことに酷く安堵して、さっきまであんなに怖がっていたことが恥ずかしくなった。
「その箱、なんだっけ。」
彼は相変わらず答えない。なぜ校庭にお菓子の箱が埋まっていたんだろう。巷に聞くタイムカプセルを思い出した。
箱の中に未来への手紙やらなんやらを入れて、埋める。何十年後に掘り出してその懐かしさに浸る。どこかの地域では小学校などで作ることもあるらしいが、私はやったことがなかった。憧れを持ちながらここまで来てしまった。
ガコッと封印が解ける音がして、その中身が見えた。
まず目に入ったのは写真だった。何気ない日常風景、体育祭や文化祭といったイベント、学校外で遊びに行った時の笑顔、そんな切り取られた思い出が何枚も詰め込まれている。
そこまで見て、やっと思い出した。あれは私達が埋めたものだ。タイムカプセルに憧れていた私が、彼や他の友人を誘って埋めたもの。10年後みんなで見ようといって、未来へ送ったタイムカプセルであったこと。そして今日がその10年後であること。
こうして彼しか来ていないのを考えると、約束は彼以外の人には忘れられてしまったのだろう。このタイムカプセルは野ざらしの屍体と同じなのだ。
「思い出なんて今の屍体だ。なんの意味もない。」
なんてセリフを吐いた彼が覚えているとは思わなかった。
「懐かしいねぇ、これとか楽しかったなぁ。」
彼は返事の代わりに、小さな嗚咽を漏らした。箱に詰められた屍体を大事そうに抱えて、とめどなく溢れる涙もそのままに。
「懐かしすぎて涙が溢れてきた?」
問に対する返事は無い。ただ一言、
「どうして居なくなったんだ」
と、彼は誰に言うでもなく呟いた。
謝罪だとか、言い訳だとか、言いたいことは腐るほどあるのに、その全てが彼には届かない。
桜に狂わされて、美しい花の養分になった。今を放棄して、思い出という名の屍体になった私にはこの言葉を伝える術は残されていなかった。
どうか君が、この美しくもおぞましい花と、その下に眠る屍体に狂わされることが無いよう、祈っている。
星空が怖い。あの得体の知れない輝きも、いつ落ちてくるか分からない不安も、どこまでも果てしなく続く暗い青も、その全てが私をギリギリと追い詰めている。
ここまでの話では単なる恐怖症、目に入れなければいい話。しかし、星空というのは想像以上に日常に絡んでくるもので、テレビ番組にSNS、絵画、書籍、道端のポスター、街に蔓延る恐怖に私は今日も苦しめられている。
原因を探し出そうにも、いつからかこんなことになったのか分からないぶんには追求できない。少なくとも高校時代まではこんなはずではなかったのだが。
「それで、星空を克服したいと?」
いつか糖分過多で死にそうなほどの砂糖を入れたミルクティーにも手をつけず、彼女は疑問符を付けて、そう問いかけた。よくつるんでいた高校時代にはまだ自覚していなかったもので、天体観測に精を出していた私達からは想像出来ないものだからだろう。
「このままでは星空に狂わされて殺されかねん。かつての同士を助けると思って付き合ってくれ。」
「そりゃあ君の星空恐怖症を克服するのは手伝うさ。友達だからね。ただ、卒業したあと君が天体観測に誘ってくれないのはこれが原因だったのかと驚いただけだ。」
「それは……忙しかったのもあるがな。お互い社会の歯車だ。時間も余裕もないだろう。」
社会の歯車にも星空を眺める権利はあるだろうにと呆れたような台詞を吐く彼女はチョコレートをつまもうとして手を戻した、どうやらビターは子供のような彼女の目にはかなわなかったらしい。天体観測をしていないのは、恐怖症だからでも、忙しかったからでもない。私はただ、疎ましかったのだ。あれほど2人で追いかけた空を恐れてしまう自分が、そんな私を嘲笑うかのように毎日現れる星空が、あのころのまま星を愛する君が。
「まぁそんなことをとやかく言っても仕方ない。原因探しをしようじゃないか。」
「そうして君に話を聞き続け、質問し続けて約3時間、進展は無しか。もうちょっと具体的な答えをくれよ。君腐っても理系だろう?もうちょっと理知的な話をしてくれ。」
彼女の星空のように広がる瞳が怖くなってか、それとも責めるような口ぶりにいたたまれなくなってか、目を背けた。
「答えと言われてもこれ以上答えられないんだ。私自身、分からない。」
こうして我々の原因探しは完全に行き詰まってしまった。ここまで来てしまえば、あとは押し問答の繰り返しだろう。この終わりの見えない議論は終わりにするべきだ。そう結論づけ、口を開きかけた時、遮るように彼女が聞いた。
「そういえば君、大人になってから怖くなったと言ったな。」
「そうだが、それがどうした。ちなみにいつ頃か明確な時期はわからんぞ。」
「別にそれは気にしてない。ただ、星空というのは私たちの夢の集合体だ。それを忘れてはいないかと。」
「は?」
なんの脈絡もない言葉に思わず疑問の声が漏れる。
「いつか星の向こうに辿り着くことを夢見て、理想と希望を詰め込んだ楽園だ。永遠に辿り着くことは無い、程遠い異世界だ。あのころの我々にとってはそうだった。」
「次の日の朝のことも気にしないで、望遠鏡を持ち寄って、夜遅くまで天体観測をしたな。まるでどこぞのバンドの歌みたいだった。」
「ても夢からはいつか覚める。夜は更けて朝になり、子供は成長して大人になる。大人になったぶん空は随分近くなった。」
「近くなって、近くで見てしまったから、その楽園が子供の甘さと無知で出来たものであるという事実に気がついてしまった。そうなんだろ?」
「君が見れなくなったのは、星空じゃなくて子供の頃の君なんだよ。大人の君にはあの頃が許せないんだ。あの頃を通して見えるあの頃から変わってしまった自分が怖いんだ。」
「何を根拠にそんなことを言ってるんだ。私はそんな」
「君、今日あってから僕の目を1度も見てくれない。子供みたいだって君が揶揄する、僕のことを。まるで恐れているみたい。」
星空が怖い。あの得体の知れない輝きも、いつ落ちてくるか分からない不安も、どこまでも果てしなく続く暗い青も、その全てが私をギリギリと追い詰めている。
星空が怖い。今では得体の知れない遠くなってしまったあの頃の輝きが、どこまでも果てしなく続く青春の暗い影法師が、あの頃の夢が、あの頃の私達が、今の私をギリギリと追い詰めている。
夢に届かず諦めた私を、許さないと、殺そうと星空が上から追い詰める。
そうしていつか落ちてくるのだ。いつまでも過去に囚われた愚か者の、その上に。