言葉がいらないなどというのは、間違いです。
貴女は確かに、あの時の俺のことを行動で諭してくださいました。けれど、それが分からない…通じない人間も、たくさんいるのです。
ですから、全てを行動で示そうなどと考えないでください。
言葉で表し、行動にも移し、できるだけたくさんの方法で、貴女の意志を人に、社会に、世界に示してください。
俺が貴女の庵に押し入ったことが、俺と貴女との物語の始まりでした。
貴女はもしかしたら、そのことを「突然の来訪」とでも表現するかもしれませんね。茶目っ気たっぷりの貴女の顔が想像できて、微笑ましい気もしますし、申し訳ないとも感じられます。
貴女は俺のような者のことも、受け入れてくださいました。
その愛に浴することができて、俺は全く幸福です。
今、そのいただいた愛を、あるいはそれ以上のものを、貴女にお返しできているでしょうか。そうであることを、日々祈り続けています。
貴女は、雨の中にひとり佇む人にはならなくて良いのです。
悲しいことがあれば、誰かの胸を貸してもらって泣けばいい。
嬉しいことがあれば、皆と踊り狂えばいい。
貴女は、人と交わり、人と共に在るのが良いのですよ。
そして静かに佇んだりせず、わいわいと賑やかに、その時間を楽しんでくださいね。
俺は別段、自分の記憶力がいいとは思いません。
けれど、貴女のことなら何でも覚えている自信があります。俺は貴女の日記帳のようなものです。
貴女が産まれた瞬間の、元気な産声。
貴女が初めて歩いた時の、貴女の笑顔。
貴女がご友人たちと過ごした日々。ご家族との時間。
そういうものを、俺は克明に覚えています。
貴女が忘れてしまっても、俺はずっとずっと、覚えています。
貴女は、どんな人間とも正面から向き合う方でした。
それが無垢な子どもだろうと、思い悩む青年だろうと、俺のような狼藉者だろうと、貴女はその向かいにそっと腰掛け、その者の心と語り合おうと努力されました。
今の貴女もそうですが、あの当時の貴女と違うのは、今の貴女は誰にでもそうするわけではない、ということです。それは俺たちにとっては、大変にありがたいことです。
何せ、本当に危険な人間というものは、改心する可能性がないのですから。貴女がどれだけ真摯に向き合ったところで、彼らは貴女を搾取するだけでしょう。
ですから、貴女が今人を選んでいらっしゃるのは、とても良いことなのですよ。貴女はそれを「人を選り好みしている」と思い、罪悪感を感じることもおありですが、どうかその自責はなさらないでくださいね。