「あ、雪平さん。昨日出してくれた資料だけど、数値間違ってるから修正して」
「はい。すみませんでした」
あ、今日中でよろしくという声は心のしぼみを表すようにだんだんと言葉が遠ざかって聞こえた。
はー、またやった。
「怒らない」教育らしい。
なんでも部屋(一応資料室らしい)に向かう途中の喫煙所でそう話しているのが聞こえてしまった。
「よく耐えられますねー。怒りたくなりません?俺とかもうイライラ出してますよ。俺のとこはまだいいほうですけど、それでもなのに、そっちのいろいろやらかし多いって聞いてますよ」
「誰からだよ。ま、怒らない教育だから。てか、怒るだけ無駄だろ。怒ったって変わるわけじゃないし、辞められたらこっちに響く」
「あー、まっそうですよね、あなたは。俺は別に上行きたいとかじゃないんで」
「気楽でいいな。圧がさ、すごいんだよ」
普段なら立ち止まらない臭いだけの場所。タバコの匂いと嫌みな言葉の匂いが混ざりあって気持ちが悪い場所。このときだけは足が動かなかった。知らない男の人と上司の会話。そっちのとは私のとこの部署だ。
はー。頭から消えない。というより上司に注意されるとあの時の光景が上映されるようになってしまった。
しんどいな。向いてないのかな。
落ち続けた就活で、特に希望もなかったけど受けたこの会社に拾われた。周りはやりたいことを見つけてどんどん前に進んでいるみたい。
新人研修で仲良くなった子たちは、できるようになればなるほど私とは関わりがなくなっていった。
…1人を除いて。
実は、最近なんでも部屋によく行っている。
彼女とはそこで会った。はじめましてではなかったけれど。
「お、今日も調べもの?」
クスクスと笑いながら言うのは、いわば2人だけの合言葉になっている。
「んー、なんかあった?」
「こんなのどお?おすすめ」
「へ?社内報?こんなの見てどうすんの?」
「ここ!おもしろいよー」
指を挟んでいたページを開いて渡してくる。私の上司の3年目インタビューだった。
彼女は同期で1、2を争う期待の星。ふんわりわたあめみたいな雰囲気からは想像がつかない。私が届く人ではない。たぶん、私から離れた同期が話したがる子だと思う。それでも、彼女は私といてくれる。仕事のアドバイスも息抜きも彼女からもらってる。
いつか恩を返せるように。
それが私がイマココで働く理由だから。
私の記憶はそのままに
周りの人の記憶を消せたら
そう思ってた
現実的には難しいから
遠くの街へと逃げるのだ
誰も私のことを知らない世界で
新しい自分となって生きてみたい
そう思ってた
思ってただけで、一度もしたことはない
そんな大胆なことができるのならば
私は私ではなかっただろう
もっとうまくできていたのだろう
家族と、友達と、部活と、クラスと、学校と、
そういった私の世界の中の人たちと
仲良く、息苦しくならない関係を築けていたのだろう
ときどき私は水の中にいると錯覚する
呼吸はしている、でも、息が吸えない
悩みの重さに押し潰されそうになったとき
私は遠くに逃げる
頭の中の私は自由に動いている
これまでもずっと可愛かった
誰よりも愛おしかった
ずっと、一番の宝物だった
「ぱあぱ」
まだ舌ったらずな危なっかしい口で初めて呼んでくれたときは嬉しかった
「パパ泣いてるよー」って2人でケラケラ笑う声で涙に気づいたくらいだったよ
大きくなったら、どう話していいかわからなくなってしまった
恥ずかしながら、大切で離したくなかったからわからなかった
どんどん距離があいて焦った
怒ってばかりの時期もあったと思う
しんどかったな、寂しかった
同じ家に住んで近いはずなのに、遠くにいたのは辛かった
これまでも、これからも、
誰よりも味方でいるし、力になりたいと思ってる
ずっと助けられてきたから
それだけ大きくてキラキラした存在なんだよ
幸せになりなさい
結婚おめでとう
最高のプレゼントを、ありがとう
おまえの泣き虫はパパ似かもしれないな
あー、今日はここもか
いつもは赤橙のグラデーションで綺麗な空も
紫と薄灰のマーブルで
それもそれぞれの色がはっきり残る感じじゃなくて
ぐちゃぐちゃってした感じ
パレットの空きがなくて一緒にしたら混ざっちゃったみたいな
これから新橋駅前のホテルに行く
泊まるためじゃないホテル
そこのラウンジにって母から連絡があった
…たぶんお見合い
今は結婚絶対って時代でもない
けど、時代と個人の考えはいつだってズレがある
このままここで、綺麗な空を眺めてたかった
私の心は、こんなにも空と一致してるのにね