「菜穂子…」
いつか一緒に行こうと約束していた丘は思いの外風が強い
初めて会った、愛おしさを感じたあの日と同じ服を着た菜穂子が立っている
お気に入りの帽子を押さえながら、腰に届きそうなほどの髪は風に委ねている
綺麗だと思った
「菜穂子!」
風に負けないように声を張る
彼女がゆっくりとこちらを見る
いつだって優雅だった。なのにいつからか苛立ちに変わっていたゆっくりとした動き。今は柔らかさしか感じない。
「…きて」
「いって…」
「いきて」
風が吹く。先ほどよりもずっと強く。
目を開けていられないほどに強く。
風がやんで、目をゆっくりとあける。
現実がやってくる。
散らかり放題の部屋に、変わり果てて汚いと言われかねない自分の姿。そして、菜穂子がいない世界。
わかったから。生きるから。
その後に、もう一度会いに行くよ。
菜穂子がいなくなって気づいたこと、気づけたことあるから。
だから、俺を待っていてくれよ。
俺をおとしたあの時のあの笑顔で。
目に見えるものほど、
追いたくなる
掴みたくなる
達成感がある
でも、
ほんとに大事なものほど
目には見えない
鬱陶しい
煩わしい
自分には関係ない
遅いとわかっていたけど
実際は失ってから、気づいた
すべてのものは
いつか壊れる
そして、一度壊れてしまえばもとには戻らない
人間も同じだ
私の体はもう二度と戻らないのだろう
小さいけれど、ストレスになる不自由を抱えて生きていく
幸せとはどのような状態なのか考えてほしい
ないものを追い続けて手に入れることなのか
あるものを見つめて守ることなのか
当たり前を保ち続けることなのか
刺激はない
だけど、だからこそ、もてるものがある
Side: 僕
僕は立っている
誰にも見られることもせず
ただ、立ち尽くしている
常に誰かに見られていたあの時は、
誰の目にも写らない日を夢見ていた
君の隣に立ち続けるために努力していたから
少し苦しかった
まさか、
そんな日がくることも、
そんな日々が繰り返されることも知らずに
僕に残されたのは虚しさだった
ただ、愛しい君を待つだけの空っぽな日々
大切にしているつもりだった
僕なりに、大切にしていた
でも、彼女から見えば大切にされていなかったようだ
今度こそ、大切にしたいから
僕は待つ
彼女と別れたこの場所で
後悔を残したこの場所で
彼女は僕を見ることができるかわからないけど
僕はずっと待ち続ける
Side: 彼女
「しかたないだろ。忙しいんだから。待たせたのは悪かったけど、何度も持ち出してくんなよ」
16日前、彼に言われた言葉は一言一句違わず頭のなかで繰り返される
彼が忙しいのは聞いていた
社内で話題のプロジェクトのメンバーに抜擢されたから
報告を受けたときは私も一緒になって喜んだ
彼が期待されているとか、
彼の仕事が認められたとか、
そういうのじゃなくて、彼が嬉しそうだったから
プロジェクトが始まってから、
彼からの連絡も、会う日も、目に見える形で減った
寂しかった
置いていかれたような心細さ
彼の目に私が写っているのかわからない不安さ
1ヶ月ぶりの約束
やっと、会える!
数時間でも、顔を見れることが、触れられることが楽しみだった
なのに、彼は1時間も遅刻した
だから、ずっとイライラしてた
わかってる
素直になったほうがいい
楽しんだほうがいい
でも、一度覚えた不安はそう簡単には消えてくれない
「もうむり」
泣いてることがバレないうちに、立ち去った
…どんな顔をしていたのかな
翌日、
ごめんなさい、とだけメッセージをいれた
今もまだ返ってこない
約束の翌週から、彼と歩いたこの場所に立ち寄るようになった
会えるかもしれない、小さな小さな期待を胸に
今日もまた、この場所をゆっくりと歩く
机に置かれた箱。
花がぎっしりと詰まっている、ように見える。
横に置かれた手紙には、
余ったのでつくりました
と、相変わらず私よりも綺麗な字が並んでいる。
いつからお花をつくっていたのだろう。
私が知らない間にずいぶんとオシャレになったものだ。
私が知っているきみは、映えとか知らない。
シンプルであればあるほど美が引き立つと言っていた。
見た目を凝ったところで、味には負けると。
笑みが浮かんでいた私はそっと箱の中の花びらを拾いあげ、口へと運ぶ。
ゆっくりと優しい餡の甘味が広がる。やっぱり彼の作品だ。