〜向かい合わせ〜
そこは昔ながらの喫茶店だった。赤い革の椅子、ダークブラウンのテーブル、それを優しい黄色い光でテーブルを照らすペンダントライトがノスタルジックな気分にさせる。とにかくそこは落ち着いた。スタバやドトールなどのチェーン店にばかり行く私にとって新鮮な感覚でもあった。
あの日は大学の再試験が終わり、たまたま一緒に受けていた友達と落ち合った。友達というより、会ったら少し話す程度の顔見知りという表現の方が正しいのかもしれない。実際に、彼と知り合って半年が経つが、大学以外の場所で関わるのは初めてだ。彼のことを知ったのは3年後期の最初の授業だった。それは経済学だったように思う。授業後に疲労感を感じており、ただぼんやりとした私に彼が「まだ帰らんの?」と話しかけた。ずいぶんとフランクに話しかけるなと思いつつ、「えぇ、まぁ」と返した。「一緒に帰らね?」と真っ直ぐこちらの目を見ながら言うものだから、私は困惑しながらもそれを承諾した。その後の会話で彼が留年しており、年齢がひとつ上であることも知った。
そこから彼とよく話すようになった。とはいっても、彼が話し続けるのを、私がただ聞いていただけだが。彼がよく話す話題は大きく分けて2つあった。
1つは音楽の話だ。彼は様々な音楽に精通していたが、その中でもBLANKEY JET CITYというバンドについて語っていたことが印象的だった。説明はお世辞にも上手く無かったが、そのバンドや音楽にかける熱量がこちらにも伝わってくるほどに凄まじかった。その話を聞いたことで、そのバンドを好きになることは無かったが、それ程までに熱く思えるものがなかったため、微笑ましくも、どこか尊敬や羨望を感じていた。
2つ目は将来についての話だ。将来の話といっても、建設的なものではなく、ただ「未来に希望なんかねぇよな〜、つまらねぇ」といったことをただボヤいているだけだ(彼はよく「〜ない」を「ねぇ」と発音する)。ただただ退屈だ。この話が始まった時には、歩くことだけに意識を向けていた。
そんな話ばかりする彼が、このような昔ながらの喫茶店を知っているのがどこか意外だった。彼には喫茶店やカフェのイメージがあまり湧かない。おもしろいなーと思い、「ここの店よく来るの?なんか意外だった」と聞くと、彼は「ここタバコ吸えるからな、最近どこも禁煙でマジつれぇ」と言い、おもむろにタバコを取り出し、向かいに座る私に許可なく吸い始めた。それが当たり前のように。「いやいや、タバコ吸ってるの知らなかったんだけど」と驚くと、「えっ?だって別に聞かれてねぇし」と応える。「タバコ吸っているところを見たことない人にいちいち聞かないでしょ」と言うと、「それもそうだな」と応え、彼はハハッと笑う。笑った時に漏れた息から、彼から無理やり貸されたBLANKEY JET CITYの「BANG!」というタイトルのCDと同じような匂いを感じた。再試験も終わったことだし、帰ったら聴いてみようと心に決めた。
その日以降、彼に会うことはなかった。単位を落として留年になったのかもしれないし、退学したのかもしれない。それは私には分からないことだ。ただ、一ヶ月前に、BLANKEY JET CITYがサブスク解禁になったというニュースを見て彼のことを思い出した。
〜鳥のように〜
空を見上げればそこには鳥がいる。私たち人間よりもはるか高くに存在する。
そこから見える景色はどのようなものだろうか。飛行機やスカイダイビングで擬似体験することはできる。だが、自分の意思で浮遊し、好きな方向に飛び回ることが出来ないため、見える世界の幅は鳥と比べて圧倒的に少ない。
そこは暑いのだろうか、寒いのだろうか。上空になればなるほど寒いといわれているが、私たちよりも太陽との距離が近い。太陽の光を背中全体で受けるとき、どのように感じているのだろうか。
鳥には人間の体感できない世界が多い。だが、逆も然りだ。人間は地面の上を駆けることが出来るし、足を使わずとも機械のおかげですごい速さで移動することが出来る。ましてや、海や川の中で泳ぐこともできるため、水温やそこから見える世界も体感出来る。そこに関しては魚の方が優れているだろう。しかし、魚は地面を歩いたり、空を飛ぶことが出来ない。
それぞれに得意、不得意があることで見える世界も変わってくる。この世の中は個性があるからおもしろい。さらに、この個性を通して見える世界をみんなで共有できたらもっとおもしろい世の中になると思う。全ての生物が意思疎通を取ることが出来る言語が生まれたら、楽しくなりそうだ。
〜空模様〜
今日の空は青い。雲ひとつ無く、海の中にいると錯覚してしまうほどに青い。
隣で手を繋いで歩いている小学3年生の息子の誠は家を出てから、たびたび空を見て笑っている。その光景は周りの人から見たら異様なものだろう。もちろん私の目にも誠の行動は不思議なものとして映った。
「どうしたの?なにか面白いことでもあったの?」
「この前、お父さんが誠の笑顔は人を幸せにする魔法だって言ってたじゃん」
「そうだね、それで?」
「その魔法を使って、空を幸せにしたら、来月の遠足の日には晴れてくれると思ったの、お父さんも協力してよ」
私も誠を真似して空に向かって微笑んでみた。その笑顔はここ最近の中で一番自然なものだった気がする。誠の笑顔はこちらに向けられていなくても、周りの人を幸せにする魔法がある。私も誠の遠足の日までこの習慣を欠かさないようにしようと心に決めた。
〜鏡〜
「俺がこの世で一番嫌いなものって鏡なんだよね。」
高校の時に友達が言っていた印象的な言葉だ。
彼は決して顔が悪くなく、むしろ整っていた。スタイルも良かったため、私は疑問に思い、「別に見た目悪くないのに、なんでそんなこと思うの?」と素直に聞いてみた。
すると、「いや、別に見た目の良し悪しじゃなくて、自分の姿をそのまま映されると、その自分の姿に見合う言動を無意識のうちにしようとしちゃうんだよね。自由度が無くなるというか、小さく収まるというか……。別に鏡に悪意はないことは分かっているんだけど、それもモヤモヤするんだよね。怒り、とまではいかないけど……そういった感情の矛先を鏡に向けようと思っても、鏡はただそこに存在しているだけだし。だから俺はなるべく鏡を見ないようにすることにしたんだ、」
彼がそんなことで悩んでいたことに対して、どこかかわいさを感じた。気持ちは分からなくもないが、そんなことで鏡のことをこの世で一番嫌いになれるエネルギーに、ある種の子どもらしさを感じたからかもしれない。
また、そんな彼の話を聞きながら、鏡に縛り付けられる彼を想像して思わず吹き出しそうになった。
彼がそんな私を見て不思議そうな表情でこちらをのぞいてくる。
私は再びかわいいと思った。その表情はもちろん、鼻の穴からピョンと出ている毛がマヌケだったからだ。
「どうしたの?」と彼は戸惑いを隠せない様子で私に聞いた。
「いや、別に何ともない」と私は答えた。続けて、「でも、鏡は多少見たほうがいいかもよ。悪いことは言わないから。」と言った。
「だからさー、俺は鏡が嫌いなの。」
そう真面目に答える彼をからかうように伸びている鼻毛を見て、どこかいじらしい気持ちになる。
「じゃあ、やっぱり鏡は見なくてもいいかも!」
鼻毛が伸びているマヌケな様子がとても可笑しいから、もうしばらくこのままにしておくことにした。彼には悪いが。