都心から少し外れた街にある老舗のイベントスペースには、満員の観客がひしめいていた。客席後方の調整室からその光景を眺めながら、私は背筋を正した。
司会者がゲストを呼び込むと、私も含めたその場にいる全員が壇上に釘付けになる。ロックミュージシャン滝口ミストが登壇した。
「こんな老いぼれを見に集まってくれてありがとう。みなさま、最高の夜を」
このイベントの構成台本のオファーをいただいたとき、ゲストの名前を見て私はすぐに返事をした。滝口ミストに関われる、こんなチャンスは二度とないと思った。誰にも渡したくない仕事だった。
私は自分の中にある滝口ミストの知識を総動員して、さらに当時の音楽雑誌を読み漁って、構成台本を書き上げた。
イベントは大いに盛り上がり、終演後、私は滝口ミストの楽屋に挨拶に行った。構成作家は台本を書くまでで仕事は終わっているので、イベント当日に現場に来ないこともある。しかし今日だけはどうしても来なければならないと思っていた。
「はじめまして、今回構成を担当した橋本光太郎と申します。本日はありがとうございました」
「ああ、お疲れ様。いい夜だったよ」
この一言にミスト節が詰まっている。
「実は滝口さんに感謝を伝えたくてお邪魔しました」
「はは、こんな老いぼれをおだてても何も出ないよ」
この人は、事あるごとに自分を“老いぼれ”と表現する。ロッカーは若くしてこの世を去るものという美学を常に心に持っていて、自分は死ねなかった男だとずっと言い続けているのだ。
「私、滝口さんの『レイトシティースクラップ』をずっと聴いていて」
「あのラジオか。ありがとね」
そう言ってくる人は山ほどいるだろう。レイトシティースクラップは伝統のある深夜ラジオ番組で、その枠は50年を超える歴史を持つ。滝口ミストが木曜1時を担当していたのはもう20年も前の話だ。
「その番組で、自分が人生に絶望して悩んでいることを投稿したことがあるんです」
滝口ミストは黙って私の話を聞いていた。当時の私は高校を卒業してすぐに就職した会社を辞め、アルバイトで食いつないでいる時だった。何をやっても楽しくなくて、生きていても仕方がないと思っていた。どうしょうもない男のしょうもない悩みだった。
その泥水で書き殴ったような文章に、滝口ミストはこんな言葉で返したのだ。
『俺はね、今でも悔しいと思いながら生きてるよ。なんで死ねなかったんだろう、なんでこんなに元気なんだろうって。すぐにでもここの窓を突き破って飛び降りたいと思ってるよ。でもそうしないのは、生きるしかないからなんだよな』
決して激しいわけではなく、高揚していることもない。何を解決するわけでもない言葉だった。でもその言葉は私の前の方から入ってきて、胸の中にストンと収まった。そして私の身体の内側をじんわりと温かくした。その言葉には確かな温もりがあったのだ。
「私はそのとき、あなたの言葉に救われました。今日、このイベントに関わることができたので、それだけを伝えたくて」
私はオタクっぽい早口をなんとか抑えながらしゃべった。
「ごめんね、全然覚えてないや」
当たり前だ。私にとっては人生を変えるような言葉でも、この人にとっては些細な会話で、そうやって無自覚にたくさんの人を救ってきたのだろう。
「不思議だな」
ミストは私の目を見て、優しく微笑んだ。
「こうして君のような人から感謝の言葉を伝えられると、自分の人生が肯定されたような気分になるよ」
「いえ、そんな恐れ多いです。私はただあなたのファンで」
直接感謝を伝えられただけで満足だったのに、そんな言葉までくれるなんて。リップサービスかもしれない。もしかしたらこんな経験も山ほどあって、ファンから言われるたびに返している言葉かもしれない。
「ファンの言葉だからだよ。君の言葉には温度があった。それはちゃんと俺のココに伝わってきたよ」
そう言うと滝口ミストは、自分の胸を拳でトントンと叩いた。スターすぎる。
「長生きもしてみるもんだな」
そう言うと滝口ミストは、膝に手をついて立ち上がり、笑いながら楽屋から去って行った。その後ろ姿を、私は胸に手を当てながら見送り続けた。
駅前でトシヤが来るのを待っている。この時間はいつも緊張して手に汗をかいてしまう。今日の服装、変じゃないかな。
「ナナコ! ごめん、待たせちゃった?」
トシヤが小走りでやってきた。
「ううん、私が少し早かっただけ。まだ待ち合わせの5分前だよ」
「あ、今日の服、かわいいね」
「あ、あありがとう。この前友達と選んだんだー」
良かった。かわいいって言ってもらえた。これだけで少し心が軽くなる。
調子に乗って右足を前に出して踵を立てて、ちょっと首を傾げて「ジャーン!」のポーズを取る。
「うん、そのポーズもかわいい。サマになってる」
よし。
「あとバッグに付いてるアクキー? そのキャラもかわいいね。それからブーツもおしゃれでかわいい。今日の服に合ってる」
「ふふ、ありがと」
トシヤはなんでもかわいいと言う。私が身に付けているものを見つけては、いいところを探してほめるのだ。
「トシヤも今日の髪型、キマってるよ!」
「はは、そうかな」
私がほめても、トシヤはそんなに嬉しくなさそうだ。
トシヤと私は幼馴染の腐れ縁で、まあこうやって二人でお出かけするわけだし? お互い興味がないわけじゃないんだろうな、と思いながら高校生になってしまった。
でもトシヤは、私のことをかわいいとは言ってくれない。服やバッグをほめてくれるけど、私の顔や姿、仕草なんかをほめることはない。
しょーじき、もどかしい。
もしかしたらただの「かわいいもの好き」で、私には興味ないのかも? ということで、次に会うときにカマをかけてみることにした。
「あれ? そのストラップなに?」
来たぞ、新しいものは目ざとく見つけるトシヤアイ。
「ああこれ? 昌子ストラップ。スマホ画面から昌子が飛び出してくるあの映画のやつ」
おどろおどろしい姿の昌子が3Dで飛び出している。角度を変えると、ほら、左は目がなくて右は耳がない。
「どう?」
これもかわいいと言えるか!?
「へ、へぇ、そういう趣味あるんだ」
あ、引いてる。ちゃんと引いてる。なんでもかわいいって言うわけじゃないのはわかったけど、これは引いてるな。まずいな。
「じゃあ、お茶しに行こっか! ほら、デイクラ行こ」
気を取り直して私たちはカフェに入った。
私がコーヒーカップを両手で持ってふわふわカプチーノを啜っていると、トシヤはつぶやいた。
「ミルクのひげ、かわいいな」
またかわいい爆弾を投下してきた。しかもミルクのひげって。私はいよいよ我慢できなくなって、思わず本音を漏らしてしまった。
「トシヤってさぁ、私のことどう思ってるの?」
しばしの沈黙。ここまできたらもうちょっと突くか。
「いつも私の服とか食べてる物とかほめるけど、私については何にも言ったことないよね。結局ただの幼馴染だから? 私には興味ないの?」
ここまで言って出てこなかったらもうダメだ。トシヤの困ったような顔が、真剣な表情に変わった。
「オレはずっと、ナナコのこと、かわいいと思ってるよ」
「え?」
「ほめられて笑う表情も、首を傾げてこっちをみる仕草も、待ち合わせにちょっと早く来てそわそわ待ってる姿も、全部かわいいに決まってるだろ」
やだ恥ずかしい。顔が赤くなるのがわかる。ドキドキが止まらない。
「でも今の時代、その、顔がかわいいとか、スタイルがいいとか言ったら、その、逆に失礼というか、炎上したり、品性を疑われたりするって言うし、ほめるとしたら服のセンスがいいとか、身に付けてるものがオシャレとか、そういう言い方しかできないと思ったから。ずっと、ずっとナナコがかわいいって言えなかった」
それって、つまりそれって……
「アンチルッキズムの弊害だ!」
それから私たちは、なんでもほめ合う仲睦まじいカップルになったのだった。……それってなんか、ただのバカップルみたいだ。
6年間無遅刻無欠席。卒業を間近に控えた僕にとってそれは唯一誇れる記録だ。最後まで休まず登校しよう。
そう思っていた矢先、僕は風邪をひいて熱を出してしまった。体の節々は痛いし、寒気もひどい。声もガラガラで自分の声じゃないみたいだ。
でも熱に浮かされた僕の頭は記録のことでいっぱいだった。僕は泣きながらお母さんに学校に行きたいとせがんだが、お友達にうつしちゃうからダメだと説得された。
僕は悔しくて仕方がなかった。僕の6年間は皆勤賞という目標とともにあったんだから。
僕はそれならとお母さんに最後のわがままを言った。学校には自分から電話をかけたいと。
意を決して電話をかける。電話が取られ、受話器の中で担任の先生が応答した。そして僕はガラガラ声で苦渋のセリフを口にした。
「コノ学校ニ爆弾ヲ仕掛ケタ。生徒ノ命ガ惜シクバ学校ヲ休校ニシロ」
僕が休むなら学校自体を休校にすればいいんだ。
パシーン!!
「バカなことやってんじゃないの。黙って寝てなさい」
お母さんに受話器を占領され、僕の計画は失敗に終わった。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「3人です」
「かしこまりました。こちらのお席にどうぞ」
会社の昼休み。歩いて5分ぐらいのファミレスに同期3人で訪れた。
A「ファミレスなんて久しぶりに入ったよ」
B「同期が3人事務所に揃うことが珍しいんだから、ゆっくり話そうぜ」
C「みんな部署も違うし、営業で飛び回ってるもんな」
B「俺なんかこの前、営業車で1ヶ月間、九州をどさ回りしてたよ」
A「へー、面白そう。冒険だな。俺は総務だから外なんか全然出ないよ」
B「そんな冒険なんていいもんじゃないよ。取引先にこき使われるだけ」
C「ほら早く注文しようぜ」
それぞれメニューを開く。
A「うわー、こんなにメニューあるんだ。ファミレスなんか来ないから知らなかったな」
B「ファミレス来ないとかどういう自慢だよ。ずっと会社にいるのに? 普段どこに行ってるの?」
A「会社の対面トイメンにある定食屋」
C「え、毎日?」
A「まあ、ほぼ毎日」
B「飽きない?」
A「割とメニュー多いんだよあそこ」
B「じゃあ普段なに頼んでんの?」
A「生姜焼きか餃子定食」
C「2種類じゃん」
A「そう」
B「え、2種類ローテ!?」
A「いいだろ、うまいんだよあそこ」
B「冒険してないなぁ」
C「ほら早く頼まないと。昼休み終わっちゃうよ」
A「こういう時ってさあ、結局定番のメニュー頼んじゃわない?」
B「あ、おま、ハンバーグとドリア禁止な。あとパスタも」
A「いやいやいや、注文できなくなるって」
C「そんなことないよ、ほらこのページとか」
A「ああ、ホントだ。でもこれとか一度も聞いたことない。極楽鳥の香草焼き? アジのニュラペ?」
C「え、ニュラペ知らない? イタリアンとかいかない?」
A「あんまり行かないな。え、知ってるの? どんな料理なんだよ」
C「まあでも珍しいか。ああでもパスタ屋が多いかな。ちょっとこだわりの強いパスタ屋だとメニューにあるイメージかな」
A「え、パスタなの? どんな感じ?」
C「いや食べたことはないよ」
A「ないのかよ」
B「お前は冒険しないからな」
A「いや関係なくない? こいつだって食べてないじゃん。じゃあ極楽鳥は?」
B「どっかの地鶏じゃない?」
A「適当すぎるだろ」
B「これとかどう? ワタナベの巻鍋蒸し」
A「なんだよそれ、ワタナベってなに?」
B「魚じゃない?」
A「え、スズキみたいなこと? じゃあ巻鍋は?」
B「それは知らない」
A「知らないのかよ。なにここ、異世界ファミレス?」
B「そんなわけないだろ。いつ転生したんだよ」
A「だったら異世界コンセプトカフェか」
C「あ、コラボメニューって書いてある。『転生したら魔界で宮廷料理長を任された件』だって」
A「本当に異世界コラボじゃねぇか。冒険してるな」
C「このラノベ知ってる?」
A「んー、聞いたことないな」
B「お前は冒険しないからな」
A「だから関係ねーだろ」
C「ねーまだ注文も終わってないんだけど。ファミレスでゆっくり話そうって言ってなかった?」
3人はテーブルに置いてあったタッチパネルで注文を済ませた。
C「じゃあドリンクバー行ってくるわ」
B「あ、ここのドリンクバー、ミックス推奨店だよ」
A「おい高校生みたいな冒険すんなよ恥ずかしい」
少しすると店員がテーブルに駆け寄ってきた。
「あのー、ワタナベの巻鍋蒸しをご注文いただいたんですが、今からですと30分ほどお時間をいただくんですけど……」
A「あ、そうなんですか? えーどうしよう」
B「あ、大丈夫です。そのままで」
「かしこまりました」
A「おい、昼休み終わっちゃうだろ」
B「これも冒険だろ? 30分ゆっくり話せるし」
C「ねえねえ! ドリンクバーにヨルバミエキスの炭酸水があるよ〜!」
A「このファミレス冒険しすぎ〜!」
ダイニングのテーブルに細長い花瓶が置かれた。白くて四角い陶器で、一輪挿しのようだ。
「お母さん、これなぁに?」
娘が母親に尋ねた。
「これは花瓶よ。お花をここに挿すの」
そう言って母親は、そこに一輪のコスモスを挿した。それを見ていた娘は
「わーきれい!」
と喜んで、楽しそうにかわいい拍手を繰り返した。母親も部屋の中が少し華やかになった気がして嬉しくなった。少しすると娘が
「これミサキもやりたい。お花でお部屋をかわいくしたい」
と言い出した。
母親は少し迷ったが、娘が花を愛でることに興味を持ったのは良い事だと思い、翌日、娘を連れて買い物に出かけた。高くないものを選べば一輪挿しは手軽に買えるし、お花も一輪なら数百円だ。
自由に選ばせると、ミサキが選んだのはマリーゴールドだった。
部屋に戻って一輪挿しを並べてみると、ミサキの花瓶の方がちょっと低い。マリーゴールドを挿して完成。ミサキは喜んでまた小さく拍手している。ダイニングテーブルに並んだ二つの一輪挿しは親子のようだ。
「お母さんとミサキみたいだね」
ミサキはそれから飽きもせず、いろんな角度から花を眺めていた。夕飯が終わってもまだダイニングを離れないミサキを見て、母親は「そろそろ寝る支度をしなさい」と言い付けた。
ミサキは「はーい」と生返事。まだダイニングに並んだ花に見とれている。
「でも、お花さん寂しくないかなぁ」
ミサキが言った。
「なぁに? 大丈夫よ。ミサキが寝ちゃっても、お花は一緒に隣同士並んでるんだから」
母親はミサキが夜更かしする理由を探していると思って反論した。
「……うん」
そう言うとミサキは寝室へと向かって行った。ようやくあきらめたかと思い、母親がテーブルを見ると、コスモスを挿していた一輪挿しにマリーゴールドがちょこんとお邪魔していた。
それを見て母親は思わず笑ってしまった。
まるでいつも母親のベッドに入ってくるミサキのようだ。