都心から電車に揺られること約1時間、数日分の着替えを詰め込んだ大きめの荷物で降り立ったのは越谷駅だった。
「埼玉って、近いね」
こたつでの会話からの成り行きで、年末の数日間をカナデの実家で過ごすことになった。二人とも無事に仕事を納めて冬休みに入れたので、こうして連れ立って向かっている。実家と聞いてちょっと身構えたが、毎日東京に勤める家族が住む家なのだから、東京から遠いわけがない。
「そうそう、ウチの会社、実家からでも通えるかもって思ったけど、満員電車とか考えたら私には無理だった」
満員電車。短い区間だけど、私も毎日経験している。あの苦痛を往復二時間と考えると確かにつらい。その点だけでも在宅ワークは可能な職種で広がるべきだと思う。
駅からバスに乗って10分程度、そこから歩いて3分のところにカナデの実家のマンションはあった。
「ただいまー」
玄関でカナデが大声で叫ぶ。すると奥からパタパタとスリッパの音が聞こえてきた。
「おかえりなさい。あらあらいらっしゃい」
カナデのお母さんはカナデにとてもよく似ていた。
「初めまして。カナデさんと同居している光峰ミツミネナオです」
「カナデの母のヨウコです。こんな何もないところまでありがとね」
家の中は観葉植物が多いという印象だった。白い壁に緑が映える。手入れの行き届いたきれいな家だ。カナデはここに高校を卒業するまで暮らしていたらしい。
リビングに通されて、ちょこんとソファに座る。やっぱり他人の実家は手持ち無沙汰ではある。
「お盆も帰ってこなかったから、今年は来ないかと思ったわよ」
ヨウコさんがお茶を出しながら小言を言う。
「夏は引っ越したばっかでゴタゴタしてたから」
「急にこの年末に来るって言うから驚いたわ。かわいいお友達まで一緒に」
「ナオが言ってくれたんだよ。実家帰ったら? って。それで、じゃあナオも一緒にって私が言ったの」
「そう、ナオさん、気を遣ってくれてありがとね。あなたの実家だと思ってくつろいでね」
「ありがとうございます。その、手伝えることがあったらなんでも言ってください」
くつろいでと言われても、である。
「私はもともと一人だって大丈夫なのよ。息子もだけど、みんなして私をお世話したいって言ってくれちゃって」
カナデのお兄さんはヨウコさんと同居しているんだったか。
「仲のいい家族ですね」
言ってからしまったと思った。お父さんがいないって聞かされてたじゃないか。
「旦那が出てったって話は聞いてると思うけど、その後からみんな優しくなっちゃってね。いい子に育ってくれたわ」
そういうものなのかな。いろんな家族があるんだ。
「お兄ちゃんは?」
「カナデが来るって聞いたら、出かけるって言って旅行に行っちゃったわ。長い連休だからちょうどいいって」
「そっか。楽しんでくるといいね」
薄情にも聞こえたが、妹が来るから母の心配がなくなったということなのだろう。カナデの返答にも、三人で暮らしてきた仲間としての信頼感が滲んでいた。
カナデが育った家で、カナデと暮らし始めた一年が暮れようとしていた。
手袋をなくした。どこかで落としたんだろう。いつも外したらコートのポケットにそのまま突っ込んでおくから、どこかに置き忘れることはないはずなんだけど。
革製で中に羊毛が付いていて、手を入れると真冬でも暖かい。お気に入りの手袋だったのに。
今日の自分の足どりをたどれば、見つけられないこともないか。そうだ、あきらめるのはもったいない。このあと予定もないし、探しに行ってみよう。
すぐに思いついたのは家電量販店だ。たしか入ってすぐにお手洗いを借りたから、そこで確実に手袋を外している。私はその店に向かった。
家電量販店に入ると一目散にお手洗いの中を探したが、手袋を見つけることはできなかった。目の前にあるベンチもくまなく見るが見当たらない。私はがっかりしてしばらくそのベンチに座っていた。
「こちら、無料でVR体験できまーす!」
あきらめで思考停止していると、威勢の良い声が耳に入ってきた。顔を上げると、そこは量販店のVRコーナーだった。はじめに来た時から興味がなくて素通りしていたんだから、特に用はない。
もう帰ろうかと思っていると、VRコーナーの奥にレザーアイテムのコーナーがあった。何が家電量販店なんだ。なんでも屋じゃないか。でもどうせなら新しい手袋でも買っていこうかと思い、そのコーナーに足を踏み入れた。
「手袋を探しているんですが」
中にいた店員さんに話しかける。
「はい、お客さんにぴったりの手袋、ございますよ!」
明るい女性の店員さんだ。一瞬で私に似合うものが何かわかるという。
「これなんかいかがですか?」
差し出された手袋は、まさしく先ほどまで自分が使っていたものと瓜二つだった。
「え、これ、ちょっとつけてみてもいいですか?」
「はい、どうぞ!」
私は興奮気味にその手袋に手を入れた。
「え、冷た! え?」
私は思わず手袋から手を抜いた。とてつもなく冷たい空気に触れているような感覚だった。手を見ると何か土埃が付いているような気がする。
「どうかされましたか?」
「え、いや、なんかこれ、変じゃないですか?」
「えー、とってもお似合いですよ〜」
あ、そういうことじゃなくて。
「それとお揃いのもので言うと…」
店員さんはどんどん勧めてくる。
「このネックウォーマーなんか似合うと思いますよ」
混乱しつつも言われるがままにネックウォーマーを持たされる。
「あ、頭から被るような形で首まで通していただいて」
いったん頭に乗せ、そのまま首元までグイと引っ張る。その瞬間、顔に痛みを感じるほど肌が冷たくなり、目の前に氷の大地が広がった。雪で覆われた世界にかまくらの家々が並んでいる。私はそのままあたりを見回したが、後ろを向いても遠くに雪山が広がるば…ガバッ!
「ちょっと、なに遊んでるんですか?」
ネックウォーマーを無理やり下まで引っ張られ、店員さんの顔がドアップで眼前に飛び出した。首元はまだ寒いままだ。
「はは、ネックウォーマー、顔に被ったまま、うろうろしないでくださいよ。おもろ」
店員さんは私の挙動にケラケラ笑っている。
「いや、これおかしいですって。なんかここの商品、異世界に…」
異世界につながってる? いよいよ何を言っているんだ? でもいま見た…映像? いや、肌に触れる空気の感覚、あれは本物じゃないのか?
「あ、と、は〜、あ、このブーツですかね。合わせて履いたらお似合いだと思いますよ〜」
もしかしたらそのブーツを履けば、あの世界を歩けるってことか? よーし…
「ちょっとちょっと! また勝手にウチの商品持ち出して!」
割って入ってきたのはVRコーナーの店員だった。ネックウォーマーとブーツを指差していきり立っている。
「あー、バレちゃったかー」
「え、あの、どういう?」
「この人いつもウチの最新VR機器を勝手に持ってくんですよ」
「だってデザインとかビジュアルとか、こっちにあった方が手に取りやすいでしょ。あとちょっとで売れるところだったのに」
「とにかく、これはVRの方に戻しますからね、お兄さんも、欲しかったらウチで買ってください!」
そう言ってネックウォーマーとブーツを持っていってしまった。そしてなぜか手元には手袋が残された。
「それだけでも買っていきます?」
「あ、これだけじゃいらないです」
仕事をやめてから、散歩をするのが日課になっていた。いや、無職になってひと月ほどはずっと家の中にいた。気がつくと体重が増えるし、動きも鈍くなってきたから、仕方なく外に出たんだった。走るのは嫌だった。すぐに苦しくなって頭が痛くなるから。
初めは気の向くままに歩いていたけれど、だんだんと3つぐらいのコースに定まってきた。今日は大きい公園の中を歩く。昼間なんか人は居ないのかと思っていたけど、平日でも昼食を食べる人や高齢の方、小さい子を連れた親など、公園を利用する人は多いようだ。世の中が休みの日は手をつないだ若いカップルも最近はよく見かける。
散歩を始めてもう十回以上はここを訪れている。やっぱりここも、同じ日々の繰り返しか。
ここに来るといつも、池のほとりで水彩画を描いている男性に出会う。同じ場所から、同じ景色を描いている。単純に、飽きないのかなと思う。
「何を描いているんですか?」
私は男性に聞いた。男性は筆を持つ手を止めて、私の顔を見た。私から見たら老人と言っていいほど、髪が白くシワの深い顔だった。
「いまを描いています」
「いま、ですか」
予想外の答えが返ってきた。私は先ほど感じたことを質問してみた。
「いつもここで描いてらっしゃいますよね。同じ景色で飽きないですか?」
老人は筆を進めながら答えてくれた。
「いまは常に変化しますから、飽きるということはないですね」
目の前には、二日前に来たときと同じ景色が広がっている。
「いまみたいに、あなたのような方に話しかけられることもありますし」
なるほど、それは明らかな変化だ。
「少しお話しいいですか?」と聞くと、老人は「どうぞ」と促した。
なぜかこの人に自分の話をしたくなっていた。
「少し前に仕事をやめたんです。毎日同じ景色を見るのが退屈で」
老人は何も言わずに筆を進めている。
「同じように企画書を書いて、同じように商品を売って、出世したら目の前にいる上司と同じような仕事を繰り返して。その見えている先が、なんだかつまらないものに思えて。変わらないんだろうなって思ったんです」
「そうですか。だからわかりやすく変わろうとしたんですね」
「ええ、だからわかりやすく仕事をやめました」
「何か、変わりましたか?」
「…やっぱり、退屈でした」
「私から、ひとつよろしいですか?」
「あ、はい、どうぞ」
「毎日、毎週、毎年と、変わらないものは習慣になります。これはむしろ、変えないことが難しく、変えないために意識しなければならないものです。私が“毎日”ここに来ているのも習慣です」
穏やかに、ゆったりと、老人は話し始めた。
「あなたが毎日仕事場に行くという習慣を体得していたのも素晴らしいことです」
老人は筆を洗って青と白を混ぜた。そして空の部分を描き始める。
「ですが、そこで起こる“いま”は常に変わります。この空に漂う雲は一瞬として同じ形を成すことはなく、太陽の位置も瞬く間に移ります。その空を映した池の色も刻一刻変化するのです」
青を少し濃くして池の中を塗り出した。
「環境を変えれば、何か変わると思ったんです」
私が退屈だと思っていた日々は、変化に富んでいたのだろうか。いまの生活と比べても、どちらが退屈なのか、その答えは見えない。結局は、自分が変わらなきゃいけないんだろうか。
「あなたが変えようと思ったのなら、それは正しい。ポイントは何を見るか、です。その変化を見逃さないようにしてください」
私は空に目を向けた。雲はゆったりと流れていく。
「ご安心ください。あなたはいまも変わっていますよ」
老人の絵に目を戻すと、いま見た空とは全く違う雲が描かれていた。
「クリスマスの予定は?」
「さすがに無理でしょう。掘られ尽くしてますよ、この質問は」
「え、そうかな」
「ダウナーで答えても、どうせ一人だとかクリぼっちだとかホームアローンだとか、そもそもなんでキリスト教の祭りを日本でやるんだとか、自分で考えたものじゃない言葉しか出てこないんだから。もう金脈なんて残ってないんですよ」
「ホームアローンは言わないだろ」
「アッパーで答えたら答えたで、恋人と過ごします、家族と過ごします、友達とクリパします、って、それ以上でもそれ以下でもない答えしかないんだよ」
「そう答えたらいいじゃん」
「そもそも今年のクリスマスなんて、24日も25日も平日なんだよ。ゴールデンウィークとかお盆とか年末年始ならわかるよ、休みだろうから、おおかたの人は休みだろうと予想されるから、まだその質問もわかるよ。でも平日は普通に生きてる大人は仕事してるだろ」
「昼間は仕事かもしれないけど、夜は時間あるだろ」
「年末の労働者の忙しさナメるなよ! なんでかわかんないけど無駄に忙しいんだよ。それこそ103万の壁でバイトは少なくなるし、それこそクリスマスやら正月やらでイベントが多くなるし、年末年始は色々休みになるからその直前のしわ寄せが来るんだよ!」
「だからなんだよ」
「だから急な残業とか不測の事態とか起こって、夜中まで帰れないことも多いの! 夜も時間ないの!」
「ずっと普通のこと言ってる」
「だから金脈はないって言ったじゃん! 何を答えても誰かが言ってる当たり前の回答になるんだよ。えーじゃあクリスマスはハワイに行ってカニ食べます? フィンランドに行ってサンタのオフショット撮って来ます? 中国の山奥で新しい仙人の誕生を目撃して来ます? 全部誰かが言ってる言葉だろー!」
「最後の方聞いたことない」
「もういいよ!」
勝負の日がやってきた。少ないバイトと私と店長で回す12月24日のパン屋さんだ。もちろん商店街の内外からたくさんのご予約を承っており、店長はお客様から聞いているだいたいの受け取り時間に合わせて新鮮なクリスマスケーキが仕上がるように、キッチンに缶詰になる。
雪をも溶かすパン屋さんの熱い一日が始まった。
我らが「ブーランジェリー・ジュワユーズ」は玉栄商店街にある。昔ながらの小商店の集まりだが、商圏には新築マンションも多く、客層は若いファミリーが結構いる。そのためか季節ごとのイベントでは街をあげて雰囲気を演出し、お客さんを呼び込もうとする活気がある。
「おつかれさ〜ん」
お昼過ぎに洋品店のタカハシさんがお店に訪れた。いつもイベントを取り仕切る商店会長でもある。
「いらっしゃいませー」
「書き入れ時に悪いね。今日は客で来たから」
この時間帯に商店街で働く人がたびたび来店した。午後の休憩でケーキを食べる人が多いようだ。普段あまり見ない人が訪れるのもクリスマスならではか。
毎日のパンを買いにくる人も当然ながらいて、その買い物のついでに思い立ってケーキを買ってくださる人もいる。予約以外のケーキは早い者勝ちだが、無くなる前にキッチンに伝えては補充するのを繰り返す。
「あの、すみません」
品出しをしていると女性の声に呼び止められた。
「はい、いらっしゃいませ!」
女性はなにやらお困りの様子だ。
「クリスマスのケーキが欲しいんですけど、娘がイチゴのアレルギーが出てしまって。パン屋さんにお願いするのも悪いんですが、イチゴを使っていないケーキはありますか?」
さっとショーケースを見渡してケーキの在庫を見る。パン屋さんの作るケーキにはそれほど種類はない。クリスマスケーキは季節的にもイチゴがメインだ。でも一つだけ、黄色が目立つケーキがあった。
「いま店長に確認しますので、少々お待ちください」
私は急いでキッチンに向かい、店長に伝えた。
「イチゴアレルギーのお客様がいらしてるんですけど、柚子のショートケーキってイチゴ使ってますか?」
店長が冬至で大量に仕入れた柚子。その残りをケーキに仕立てた商品だが、私は調理過程を見ていないから無責任にイチゴを使っていないとは判断できない。
「ヤマノさん、いい判断ね。実はクリームにイチゴを使ってるの」
確認してよかった。でもお客さんには残念な思いをさせちゃうか。
「お客様にお断りを…」
「待ってヤマノさん」
私がキッチンを出かけたところを店長が声で制した。
「イチゴ不使用のショートケーキ、今から作るわ。90分後に受け取れるか、聞いておいて」
「はい、かしこまりました!」
◇ ◇ ◇
怒涛の一日が終わり、クリスマスイブのパン屋さんはいつもより少し遅く夜9時に閉店した。
「お疲れ様。はい、私からのプレゼント」
帰り際、私のところに店長がケーキを包んでやってきた。
「もう遅いから、帰って食べなさい」
中身を見ると柚子のショートケーキだった。私は少し考えて、片付けをする店長の後ろ姿に向けて言った。
「ここで食べます。店長、一緒に食べましょ」
店長は私を振り返り、少し驚いた顔をした。
店長が片付けを終えるのを待って、私はコーヒーを淹れて二人分のショートケーキをお皿に移した。
「あなた、社員になるつもりはない?」
いきなり店長が直球をぶつけてきた。待って心の準備とか。
「調理は変わらず私と職人たちがやるから、朝早く来る必要はないわ。もともとパン職人と接客は勤務形態が分かれてるからフレックスでOKよ」
私の目をまっすぐに見て言葉を続ける。もちろん私も考えたことがないわけじゃない。
「冷静に考えても、私にとっていい話だとは思うんですけど」
この人の期待に応えられるようなことは何もしていない。私は頭の中で悪態をつきながら、不承不承で店長の無茶振りに対応していただけだ。本気でこの人の許で働く覚悟が自分にあるだろうか。
「いいえ。私にとっていい話なの。あなたのような人材がこのお店に入ってきて、とてもいい仕事をするのを私に見せてくれた。そんな人が社員になってくれるなら、こんなにいい話はないのよ」
とっても自分本位な言い分なのに、とっても素直で嬉しくなる言葉だ。私もこの人の愚直さを間近で見てきた。じっと私の目を見据えて話す言葉に偽りがないことはわかっている。
どうせ何の目標もなく生きてる人生だ。この人の近くにいれば、目標のある人生を学べるかもしれない。
「わかりました。私、社員になります」
店長の顔が一瞬柔らかく緩み、次の瞬間には目つきだけ鋭くなった。
「よし、そうと決まれば明日の戦略を立てるわよ。25日こそクリスマス。まだまだケーキを食べてもらいましょう。今日の取りこぼしがまだまだあるはずよ」
「ちょっと店長、ケーキぐらいゆっくり食べさせてくださいよー」
この切り替えの早さと商売っ気の強さをじっくり勉強する日々がこれから始まるのだ。