仕事をやめてから、散歩をするのが日課になっていた。いや、無職になってひと月ほどはずっと家の中にいた。気がつくと体重が増えるし、動きも鈍くなってきたから、仕方なく外に出たんだった。走るのは嫌だった。すぐに苦しくなって頭が痛くなるから。
初めは気の向くままに歩いていたけれど、だんだんと3つぐらいのコースに定まってきた。今日は大きい公園の中を歩く。昼間なんか人は居ないのかと思っていたけど、平日でも昼食を食べる人や高齢の方、小さい子を連れた親など、公園を利用する人は多いようだ。世の中が休みの日は手をつないだ若いカップルも最近はよく見かける。
散歩を始めてもう十回以上はここを訪れている。やっぱりここも、同じ日々の繰り返しか。
ここに来るといつも、池のほとりで水彩画を描いている男性に出会う。同じ場所から、同じ景色を描いている。単純に、飽きないのかなと思う。
「何を描いているんですか?」
私は男性に聞いた。男性は筆を持つ手を止めて、私の顔を見た。私から見たら老人と言っていいほど、髪が白くシワの深い顔だった。
「いまを描いています」
「いま、ですか」
予想外の答えが返ってきた。私は先ほど感じたことを質問してみた。
「いつもここで描いてらっしゃいますよね。同じ景色で飽きないですか?」
老人は筆を進めながら答えてくれた。
「いまは常に変化しますから、飽きるということはないですね」
目の前には、二日前に来たときと同じ景色が広がっている。
「いまみたいに、あなたのような方に話しかけられることもありますし」
なるほど、それは明らかな変化だ。
「少しお話しいいですか?」と聞くと、老人は「どうぞ」と促した。
なぜかこの人に自分の話をしたくなっていた。
「少し前に仕事をやめたんです。毎日同じ景色を見るのが退屈で」
老人は何も言わずに筆を進めている。
「同じように企画書を書いて、同じように商品を売って、出世したら目の前にいる上司と同じような仕事を繰り返して。その見えている先が、なんだかつまらないものに思えて。変わらないんだろうなって思ったんです」
「そうですか。だからわかりやすく変わろうとしたんですね」
「ええ、だからわかりやすく仕事をやめました」
「何か、変わりましたか?」
「…やっぱり、退屈でした」
「私から、ひとつよろしいですか?」
「あ、はい、どうぞ」
「毎日、毎週、毎年と、変わらないものは習慣になります。これはむしろ、変えないことが難しく、変えないために意識しなければならないものです。私が“毎日”ここに来ているのも習慣です」
穏やかに、ゆったりと、老人は話し始めた。
「あなたが毎日仕事場に行くという習慣を体得していたのも素晴らしいことです」
老人は筆を洗って青と白を混ぜた。そして空の部分を描き始める。
「ですが、そこで起こる“いま”は常に変わります。この空に漂う雲は一瞬として同じ形を成すことはなく、太陽の位置も瞬く間に移ります。その空を映した池の色も刻一刻変化するのです」
青を少し濃くして池の中を塗り出した。
「環境を変えれば、何か変わると思ったんです」
私が退屈だと思っていた日々は、変化に富んでいたのだろうか。いまの生活と比べても、どちらが退屈なのか、その答えは見えない。結局は、自分が変わらなきゃいけないんだろうか。
「あなたが変えようと思ったのなら、それは正しい。ポイントは何を見るか、です。その変化を見逃さないようにしてください」
私は空に目を向けた。雲はゆったりと流れていく。
「ご安心ください。あなたはいまも変わっていますよ」
老人の絵に目を戻すと、いま見た空とは全く違う雲が描かれていた。
12/27/2024, 1:07:37 AM