この思い出は赤のクレヨン。こっちの思い出は水色のクレヨン。子どもの頃からそうやってノートに思い出を書き分けていたら、だんだん、印象に残りそうな場面でこれは何色だなってわかるようになった。
友達といる時はオレンジ色、試験前は群青色、体育の時は黄緑色、歌っている時はピンク色。
美術の授業で色彩を勉強したら、どうやら楽しい時に暖色系に、悲しい時に寒色系に感じるみたいだ。
高校生になると、その感覚がどんどんエスカレートしていった。起きている間ずっと、感情が色になって見えるようになった。視界に色が付くわけじゃない。脳を色が覆うような感覚。たぶん共感覚みたいなことだ。別に不便なわけじゃないし、特殊能力を持った感じで嬉しかった。
でも初対面の人に出会った時は、変な先入観を持ってしまうこともある。ぱっと見で明るい感覚になれば、たぶん友達になるし、暗い色になれば、たぶん仲良くなれない。
上京して大学に入ってすぐ、サークルで出会った先輩は、ちょっと気味が悪かった。会った瞬間、視界でわかるほど目の前が真っ白になった。
この感情だけはわからない。これからどうなるのか、その人に何をされるのかわからない恐怖があった。東京にはまだ私の知らない感情があるのか…なんて詩的なことを思ったりもした。
私はちょっとその先輩を避けるように過ごしていたが、飲み会とかで話すことがあると何故か趣味が近くて、好きなバンドの話で盛り上がった。そんな時は頭にオレンジやピンクが薄く差した。
大学2年の年末、実家に帰省した。思い立って子どもの頃に書いていた思い出ノートを探した。それは子ども部屋の押入れの中にあった。
カラフルなたくさんの思い出の中に、私は白を探した。そしてある一文が目に留まった。
「きょうはちかちゃんと しょうらいのゆめ をはなした」
5歳ぐらいか?全部ひらがなの文章をゆっくりと読み進める。
「ちかちゃんは あいどる になるってゆった」
アイドルはやはりピンク色で書かれている。
「わたしは しょうらい をきたいってゆった」
ん? なんで書いてないんだ? 違う。よく見ると、そこに白い文字が書かれている。これだ。先輩の謎は私の将来の夢に関わっていたんだ。
じっくりと目を凝らす。心臓が高鳴る。脳は緊張の黄色で脈打っている。
「わたしは しょうらい ウエディングドレス をきたい…」
ウエディングドレスを着たい。子どもの夢としてはあってる。いわゆる「お嫁さんになりたい」という夢だ。つまり先輩は私の…運命の人?
大学を出るまで、私と先輩が付き合うことはなかった。なぜって、先輩は一緒にライブに行った私の同期とくっついたからだ。
そして大学を出ると…
先輩は就職してウエディングプランナーになった。
「冬になったら忙しくなるよ」
クリスマス飾りを準備しながら店長がつぶやいた。大手チェーンはハロウィーンの翌日から店をクリスマス仕様に付け替えるが、うちのパン屋にそんな体力はない。
「やっぱりクリスマスは書き入れ時ですか?」
11月も20日になろうかというこの時期に「ブーランジュリー ジュワユーズ」ではバイトに手作りの飾りを作らせていた。
「もちろんそうなんだけどね。やっぱり労働力。どこの業界にも『103万の壁』は高くそびえているわけよ」
「いま話題の?」
私も学生バイトだから知らないわけじゃない。そこを超えたら税金で引かれるというなら、ギリギリで止めたいと思うのが人情だ。
「でも今年はヤマノさんのバイト募集のおかげでちょっとは楽できるかもだけど」
「それを言いますか…」
私は愛想笑いと苦笑いの間を意識して顔を作った。ハロウィーンの時に書いたバイト募集の貼り紙。そのおかげか新しいバイトが3人入った。
「でも、もともと企業は12月にバイトを入れられてなかったわけですよね? それだと103万の壁が緩和されたとしても、年末に人員を増やせないんじゃないですか?」
「いや、仕事は普段よりたくさんあるぐらいだから、人はいなきゃ回らない。だから短期の派遣を雇うしかなくて、その分経費は割高になるんだわさ」
語尾に変なキャラ入れてきた。店長、疲れてるな。
「日雇いで慣れてない人に働いてもらうより、年末こそ熟練のみんなと最高の接客をしたいじゃない?」
店長のドラマチックスイッチが入ってしまった。
「あ、わたしクリスマスは彼氏と過ごすので入れませーん」
「わ、私もそのあたりで実家に帰るので」
「えっと、年末はスノボで山に籠りまっす」
聞いていたバイト仲間が一斉に裏切りの声を上げた。店長はそちらを一瞥したあと、勢いよく私に向き直り、
「ヤマノさんは、クリスマス、入ってくれるよね?」
こんな空気じゃ断れない。あ、いや、もちろん入るつもりだったけど、圧が。
「予定ないんで、もちろん大丈夫です。あの、M-1の日を外してもらえたら」
今年のM-1グランプリは12月22日だ。
「大丈夫、その日はうちも半日で店閉めるから」
やっぱり店長はお笑い好きだった。
私たちはいつも離ればなれ。彼が外にいる時は、いつも私がお留守番。私の仕事はいつだって留守を守ること。
彼は朝から外に出て、帰りは遅くなることも多い。外で何をやってるのか知らないけど、いつも友人と連れ立って外に出ては、連れ立って帰ってくる。
私との触れ合いは、玄関での朝晩のキスだけ。
「これが僕の仕事だから」彼の言い分はそれだけ。
家に帰ってきても、私と一緒にはいてくれない。友人と一緒にダイニングに居座って、夜通し語らっていることもある。私はそれを遠くから見ているだけ。
いつも 離ればなれは寂しいけれど、私はあなたを裏切るつもりなんてなかったのよ。でも…
あなたがいない時、その人が突然現れた。私は抵抗することもできず、その人に唇を奪われた…。
それからその人はあなたのいない時にたびたび現れるようになった。私にキスをして、そのままリビングに居座るの。そしてまたキスをして去っていく。
なにより驚いたのは、あなたが帰ってきた時に、その人があなたの友人に紛れて一緒にリビングでくつろいでいたこと。なんて大胆な人って思った。でも私、気づけばその生活に刺激を覚えてしまっていた。
その人はあなたの目を盗んで私にキスをして出ていくこともあったわ。そのときあなたは先に外に出ていて、私には目もくれなかった。
不思議ね、私、自分がこんなに悪い人だなんて思ってなかった。でもいまは、この生活がずっと続けばいいって思ってる。少しでも長く触れ合っていたいから。離ればなれは嫌だから…。
「フミカ?部屋の鍵かけた?」
「いま閉めてる。なんか最近、うまく鍵かかんないんよね」
「それな、なんか時間かかるよな」
「なんか、離れたくないみたい、あたしたちみたいに」
「恥っず。おいくっつくのやめろよ」
少しでも長く触れ合っていたいから…。
おもちゃコーナーの片隅に、ちょうどバービー人形と同じぐらいの大きさの箱で、それは売られている。
「こねこね子猫」
簡易的にペットを持つ楽しみを疑似体験できるキットとして当時の子どもたちに一世を風靡した。もとい子どもだけでなくペット禁止のマンションに住む若い女性や大っぴらに猫好きを公言できない男性たちにも愛される存在だった。
パッケージを開けると、個包装のビニールに入った水色の液体と透明なジェル状の液体、そしてこのキットには茶色い粉末が入っていた。パッケージを形どるプラスチックは子猫の型になっていて、はじめに二つの液体を型に流し込んでよくかき混ぜる。
今はデジタル技術が進化して、ホログラム化したペットを家庭で楽しめる時代だから、短期間とはいえ手のかかるリアリティペットグッズは人気が落ち込んでしまった。
かき混ぜて粘土のような硬さになったら、型から取り出して手でこねる。このときに「いっぱい愛情をこめてこねこね」しないと「いい子」に育たないらしい。生育期間は1週間、子猫から成体になったときに息を引き取る。もともと子どものおもちゃを想定して作られているから、子どもが飽きるタイミングで機能を失うようにできていた。
子どもというのは残酷で、高学年にもなるとどれだけ早く成体にして何日で息を引き取らせるかを競うような悪趣味なノリが流行することもあった。このような遊び方が増えてくると、PTAと教育委員会を中心に規制を求める動きが出始めた。
愛情を込めてしっかりこねたら、次第に色が変わってくる。水色と透明を混ぜているのに、ピンクがかってくるのだ。これが愛情の色だというのか。
こねこね子猫に重大な転機が訪れたのは「夢の長期飼育を実現!1年保証のこねこね子猫」を発売した時だった。単身者への人気に目を付けたメーカーが若い世代をターゲットに売り出した商品だった。
生育期間は文字通り1年間。しかし子猫でいる期間は変わらず1週間で、そこから先は成体の猫として活動する。この商品は爆発的なヒットとなる。その年の日経ヒット商品番付で堂々の東の横綱を獲得するほどの人気だった。
しかし、だからこそ大きな問題が続出した。まずは通常のペットと同様の問題、1年間も育てられない人が大勢出た。おもちゃとはいえ命なので、強制的に機能を停止させることはできない。こねこね子猫を捨てる行為が頻発した。
そして社会問題にまでなったのが、害獣生育だった。パッケージには注意事項としてこんな文言がある。
「本製品と別の型を使用しての成型はご遠慮ください」「注意事項を守らずに不慮の事故が発生した場合、当社は一切の責任を負いません」
パッケージに含まれる型以外を使用した場合どうなるか。使った型の生物が生まれることになる。条件は型が生き物の型であること、そして「幼体」の型であることだ。
充分にこねたらそれに粉末をかける。これは表面のコーティング材のようなもので、これを全体に満遍なく定着させると鮮やかな毛並みになる。
不正使用は発売当初からあったが、幼体のまま1週間で機能を停止すれば大きな問題にはならなかった。しかし1週間で成体になりその後1年間活動し続ければどんな問題が起こるか…。
子犬、子馬などはまだ良かった。馴致すれば活用する方法もいくらでもある。しかし、世の中には幼児向けの子熊の型があふれていた。面白半分で子熊の型を使った1年保証の「こねこね子熊」は充分な愛情を与えられずに猛獣と化し、町を襲った。
政府は事態を重く見て「1年保証」の販売を禁止し、在庫も回収するよう命じられた。だが闇サイトでの売買は止まず、販売禁止から2年が経ったいまも、猟友会が東京の街中で厳戒態勢を敷く状況は続いていた。
そんな中、猟友会でも太刀打ちできない怪獣が現れた。姿は熊だが毛皮が鋼鉄のように硬く、猟銃が通らない。政府はそれをKK-55号と名付けた。東北地方で発見されたそれは、2ヶ月かけて列島を南下し、今まさに東京に侵攻しようとしていた。
通常品の「こねこね子猫」の販売は禁止されなかったが、問題が広がると怖がって買う人がいなくなり、店頭からも姿を消した。僕はたまたま訪れた町の商店街にある駄菓子屋の隅で、ホコリかぶっている「こねこね子猫」を見つけた。
KK-55号の生成犯は早々に拘束されており、調べに対し彼は「悪ふざけでやった。コーティング材には工場で出た鉄粉を使った」などと供述している。
ここまで深刻な状況に至っても、「こねこね子猫」の製造元は、メカニズムはおろか製造方法の開示に応じていない。企業秘密の一点張りである。
粉末でコーティングされた粘土質の塊は黄金に輝いていた。僕は今日、禁を犯す。そしてヒーローになるんだ。KK-55号が東京に入ったらもう時間に猶予はない。今はこのアイデアに賭けるしかないんだ。大丈夫、こいつは幼体のままで力を発揮するはずだ。相手は熊だ、ゴジラじゃない。
僕は子猫の型を脇に置き、代わりに金太郎飴の鋳型に黄金の粘土を流し込んだ——。
外の空気は、もうすっかり冷たくなってきた。この前“木枯らし一号”が吹いたというニュースを見た気がする。秋風がひんやりと顔のあたりを刺す。
こんな寒いのに会社行くのやだなぁ。
真夏にもおんなじことを言ってた気がする。在宅ワークOKのゆるいデザイン会社だけど、今日は珍しく対面のミーティングが予定されていた。散歩で歩くのは好きなのに、会社に向かうときだけ足が重いのはなんでだろう。
やっとの思いで会社にたどり着いた。早く来てる人があっためてくれてるから室内はぬくぬくしている。
「あーさぶさぶさぶー」
暖気に触れて独り言が口をついた。
「人間って寒い時より、あったかいところに入ったときに寒いっていうよな。なんでなんだろう」
すぐ後ろにナカガワ課長が立っていた。
「わ、ちょっと驚かさないでくださいよ〜。おはようございます」
「おはよう。カシマ久しぶりか?ずっと在宅だったろ」
特に嫌味な言い方じゃない。この人はフラットに世間話をする人だ。
「1週間ぐらいこもってました。ホントは今日も出たくなかったんですけどー」
「自由人だな。その調子で頼むよ」
私の悪態にもツッコミなしでスルーするのがナカガワスタイルだ。
メールチェックと大事なミーティングを終えたらもうお昼。食堂と名のついた休憩室にコンビニで買ってきたものを持ってきて食べる。
「あー、カナデちゃん久しぶり〜!」
「あ、ユウキさん、ミサさん、お久しぶりです〜」
コンシューマ…あれカスタマーマーケ…えーと販売企画室の先輩たちだ。部署が違うとお昼ぐらいしか顔を合わせない。この人たちとは前にチームで仕事をしたことがあった。
同じテーブルを囲んでお昼を食べる感じになった。二人は一緒にいるとずっとしゃべっている。
「ミサは最近彼氏とはどうなの?」
「ウチはちょっと秋風入ってるかなぁって感じです」
「うーわ、古典みたいな言い方! カナデちゃんわからないんじゃない?」
ユウキさんからキラーパスが入る。え? 私?
「え? あー、最近風強いですよねー」
「ほら、わかってない。古い表現でね、関係が冷えてくることを“秋風が吹く”っていうのよ」
そうなんだ。としか思えない。
「カナデちゃんは彼氏いるんだっけ?」
この流れだとやっぱり来るよなぁ。
「や、いないです。全然。最近、友達とルームシェアしてるんです。それで今の生活がすごく楽しくって」
「あーそれもいいなぁ。ケンカとかしないの?」
「もうぜんぜん! パートナーはすごく優しくて、甘えちゃってるんですけど、私が家事とかサボっちゃってても文句言わないでやってくれたりとか」
やだ私なんか早口になってる。
「なになに? パートナーって呼んでるの? そういうカンケイなんだぁ」
え、そこからかう? いいじゃんパートナーで。
「この前、向こうは“家族”って言ってくれました」
「キャー!もうアツアツじゃない。いや、うん、もうイマドキ全然おかしくないと思うわよ」
「いや、そうゆうんじゃないですって。女同士仲良くやってるだけです」
「ちょっともうユウキ、やめなって」
「あ、ごめんね、また聞かせて。ルームシェアのエピソード」
そう言うと二人は休憩室を出て行った。
帰り道、昼間のことを思い出していたら、ちょっと胸がチクチクした。あたしとナオの関係をそんな風に言ってもらいたくない。一緒に暮らす大事な家族。私だけに見せてくれるナオの笑った顔、寝ぼけた顔、お風呂上がりの濡れた髪…。
「あー熱い熱い」
ひんやりとした秋風がほてった顔を優しく冷やした。