2024/10/26「友達」のお話のもう一つの物語として
だめだ、昨日のことが頭から離れない。
起き抜けのカフェオレを飲みながら、また昨晩のやりとり思い出していた。寝室は別だから寝る時に顔を合わせることはなかったが、向こうが起きて来たらちゃんと話せるか不安だ。
カナデが急にあんなこと言うもんだから。思わず家族だなんて…。いきなり言って引かれてないか心配だったけど、あいつはやたら喜んでくれたな。
「友達だと思ってる?」って、一緒に住んでて今更なにを言ってるんだと思ったけど、カナデは気になってしまったことは聞かずにはいられない性格なんだよな。ちょっと子どもみたいだ。
日曜日だし、しばらく起きてこないだろう。先に朝食を作っておくか。
…あいつ、家事を私に任せすぎてるって自覚あったんだ。ちょっとからかっただけなんだけどな。かわいかったな。自分は家事全般を楽しんでやれるからなんとも思わない。むしろ一人でいるより世話を焼ける相手がいる方が張り切ってやれる。だからカナデが居てくれるだけで生活にハリが出る。
こういうことも言ってあげた方がいいのかな。ちゃんと言い合うのもルームシェアを続けるには必要なことかも。でも口にするのは恥ずかしいし。
両手を顔に当てて伏せる。また恥ずかしさが込み上げてきた。
んんー、にしても家族は言いすぎたかな。向こうが親友って言うから、なんかこう、負けてられないみたいに思っちゃったんだよな。恥ずかしかったな。
「どうしたの?」
え!?びくっとなって顔を上げる。カナデがあくびしながら立っていた。
「起きるの早いな」
「へへ、朝ごはん作ろうと思って」
カナデも昨日のこと気にしてるのかな。いいのに。
「そっか、じゃあお願いしようかな。カナデの料理、楽しみ」
思ってることは言っておかないと。うん。
「やー!朝ごはんでそんな期待しないで!」
なんだかんだ私より凝った料理を出してくるところがズルいんだよな。ちゃんと器用だし、ちゃんと研究するタイプ。
「ねえ、昨日の話、あれ、お互い忘れない?」
ワンナイト後のカップルみたいな言い回しになってしまった。
「え?やだやだ、なんでそんなこと言うの!せっかくファミリーになったのに!」
こいつ“ファミリー”気に入ってるな。
「パートナーもだいぶ恥ずかしいけどな」
「あ、ひどい!いいじゃん、パートナーでファミリーで、無敵のコンビだよ!」
また熱くなってきた。こいつ全然否定しないじゃん。どんどん恥ずかしくなるだけだ。あっ。
「わかったから。玉子焼き焦げるよ」
「あーもう!ナオのせいだからねー!」
出来上がった玉子焼きはちゃんとおいしかった。
押入れの暗がりから発掘されたのは、ハカマダ堂の紙袋だった。フリマアプリで売れば値段がつく。しかしこれは一体いつ誰からもらったものだろう。何をもらったのかも覚えていない。
私の家族にデパートに行くような人はいない。物を定価で買おうなどという文化はデフレとともに捨ててきた世代だ。あ、いや世代のせいにしてはいけない。育ちのせいだ。
いくら私の家族とて、贈り物ならそんなケチなことを考えないだろう。ならば家族の誰か?そもそも私にお祝いの場面など数えるほどしかないはずだ。
違う、私は押入れの整理をしているんだ。手を止めてはいけない。考えながらカゴの中を漁る。
手に取ったのは肩から掛ける小さなポシェットだった。これは新卒で入社した総合スーパーで使っていたものだ。すぐに配属された売場が食品ではなかったからエプロンが支給されなかった。品出しで使うカッターやらペンやらを入れておくのに便利だと先輩のパートさんに勧められて購入したんだ。
確かに便利だったけど、そのスーパーは1年半で辞めてしまった。いま思えば、あの会社にとって売上が伸びるような時期じゃなかったのに、暗がりの中で売上に必死にしがみつこうとしていた。誰が見ても社員は疲弊していた。一年目の私にはできることはなかった。
となればこのカゴは2010年代初頭の出土品が発掘される地層ということになる。つまりは私にとって大学卒業からの数年間だ。ならばあの紙袋は卒業祝いか就職祝い。
…もしかしてそれもこの箱の中に入ってる?さすがに人からもらったお祝いの品をガラクタとともに押入れにしまい込むような恩知らずではないだろう、この部屋の住人は。
倒置法で自分を追い込んだところで、カゴの底の方で小さい箱の感触があった。UFOキャッチャーのごときおぼつかない手つきで引き上げると、それは万年筆の箱だった。
あった。これだ。
すべてを思い出した。これは就職祝いに親戚の伯父さんから贈られた万年筆だ。彼は海外に赴任した経験もある本物のビジネスマンで、帰国の際は私の実家によく立ち寄って土産話をしてくれたものだ。子どもの私は内心では伯父の自慢話に退屈しながらも、その後に出てくるお土産のチョコレイトを期待して興味津々の体で話を聞いていた。
その伯父さんがくれた万年筆は、国内最高級ブランド航海館の品だった。
化粧箱はスライド式だ。引き出すと金色のメッキで縁取られた紺色の軸が見て取れる。この部屋の住人は少なくとも万年筆を裸で投げ入れるような恩知らずではなかったらしい。隣にはコンバーター。ん?いや、そもそも使ってすらいない…!
押入れはタイムカプセルだ。あの日の思い出をあの日のまま保管している。
万年筆って、使い始めるの勇気いるよね。
通されたのはこぢんまりとした事務所だった。雑然としたデスクの奥にちょこんと応接セットが置かれていた。
「あら、お茶をお出ししなくちゃね。何かリクエストはあります?」
「あ、お構いなく」
「じゃあ、お紅茶でよろしいかしら?」
女性社長はそう言って返事も待たずに給湯室へと消えていった。
「あ、い、いただきます」
このお客様に営業に来るのは初めてだ。今日はいい印象を持って覚えてもらえればいい。本格的な商談は次に来るときでいいぐらいに思っている。
待っていると紅茶の香りが漂ってくる。
…。オレ、紅茶 苦手なんだよな。いきなり「紅茶はちょっと」とか言っちゃったら角が立つかなぁとか思って「いただきます」なんて言っちゃったけど、どうしようかなぁ。商談だし、ひと口だけいただいて、そのままにしてても不自然じゃないよな。
「お待たせ。いま入れるわね」
社長は空のカップと中身が見える透明なティーポットをお盆に乗せてやってきた。中には茶色…いや紅茶色の液体が波打っている。
「あ、そんなわざわざ、ありがとうございます」
社長は片手でカップを持ち、もう一方の手でティーポットを持ったかと思うと、ティーポットを大上段に構えて傾けた。紅茶色の紅茶は滝のように落ちてきてカップの中に激しい音とともに吸い込まれていく。
あ、ああ、あああ、杉下右京のやつだぁー!!
え、これ普通なの?紅茶飲む人って毎回これやってるの?それともデモンストレーションみたいに来客が来たらやってくれる人なのかな。これリアクションどう取ればいいの?
「どうぞ、召し上がれ」
「あ、どうも。その、本格的なんですね」
「あらやだ。ちょっと張り切っちゃったわ」
セーフか?これで合ってるか?とりあえず機嫌は損ねてないよな。
「温かいうちにどうぞ」
やば、催促された。さすがに飲まなきゃだよな。よし。
紅茶の香りが部屋中に充満している。私は堪能しているように見えるようにゆっくりとひと口いただいた。
うん。好きな人が飲んだら美味しいんだろう香り高くしっかりと味がする。だがそれが口に合わない。
「あ、たいへん香りの良いお味ですね、さっそくですが弊社のサービスについてお話を…」
顔に出てないかな。大丈夫かな。ボロが出る前に商談を進めないと。
「あらいけない。砂糖やミルクはいります?私がいつもストレートだから忘れてたわ」
何も入れないのをストレートって言うのか。ブラックって言いそうになった。
「あ、や、ストレートで」
「そう。じゃあ、説明していただこうかしら」
この人、紅茶飲ませたいだけなのかな。
「それではサービスの説明をさせていただきます…」
私は自社製品とサポート体制についてひと通り説明を終えた。そろそろアポイントの時間も終わる。
「ひとつ、よろしいかしら?」
質問?てことはウチのサービスに興味を持っていただけたのか?
「あなた、お紅茶にひと口しか手をつけてないわね」
いや紅茶そんなに気になる?しかもやっぱりバレてた?
「あ、説明に夢中になってしまって、すみません」
「あなたもしかして、お紅茶はお嫌いですか?」
いきなり図星を突かれてハッとなる。
「いえ、そんなことは…」
「だってそうじゃありませんか。私がお紅茶を持って現れたとき、あなたは銘柄すら聞かなかった。そしてティーポットから紅茶を注ぐ時も、あんな注ぎ方をしたら、普通はもっと引きます」
引いて良かったんかい!いやそれより、オレが紅茶嫌いだったとてなんなんだよ。別にいいじゃん。
「その時に私、気づいたんです。この人は紅茶が嫌いだと。そう考えるとすべての辻褄が合うんです。私はわざとミルクも砂糖も用意しないでお紅茶のみをお出ししたのに、何も不思議がることなく口を付けた。もしあなたが紅茶好きなら、私が何も用意していないことそのものに不審がるはずです。ええ、まさに今のあなたのように」
え?オレ?
「あなたはいま、私に対してこう思っているはずです。あなたの会社のサービスについて、散々説明したのに、この人は、自分が触れていないことに何故質問して来ないのか。その出方によっては、これ以降の営業の仕方も考えなければならない、と」
「そ、そんなことは…」
「もうお分かりですね?あなたのサービスに興味を持っていればすぐにでも私が質問しなければならないこと、それは、そのサービスの値段です」
その通りだった。私は商談の間、一度もこのサービスの価格を口にしていない。まさに社長の言う通り、価格に関する質問がなければ興味を持っていないと判断し、営業を中止するか、より強く営業をかけるかを考え直さなければならない。
ただ、いまオレが考えているのはそんなことではなかった。
この人、この人…
この人、杉下右京みたいな人だぁ〜!!
「最近 振り込め詐欺 流行ってるからさ。合言葉 決めておこうよ」
若いカップルがカフェで話しているのが聞こえてきた。
「え、振り込め詐欺ってなに?」
そこからかよ。
「他人が知り合いを装って電話をかけてきて、急にお金が必要になったから貸してって言ってくるの」
彼氏ちゃんとしてんのかよ。
「え?ゆーくんのスマホからかけてくんの?」
「違う、知らない番号から」
「え、あーし出なくない?知らない番号?非通知?あーし出ないよ?」
彼女 一人称『あーし』かよ。
「今は、SNSでも来る可能性あるから。オレじゃないアカウントから、例えば面倒なことに巻き込まれてアカウント変えましたとか。それこそ乗っ取りとかもあるし」
彼氏ちゃんとしてんのかよ。
「ゆーくんすごー!え、やってた?」
その可能性あったか。彼女どんな返しだよ。
「それな。いや違くて、合言葉、決めとかない?」
「いいよー⭐︎」
『それな』ってなんだよ。もっと動揺しろよ。彼女なんで語尾で星 出せるんだよ。
「じゃあさ、ブレーキランプの絵文字を五個並べるってどう?」
アイシテルのサインじゃねーか!彼氏いくつだよ。伝わらないだろ。なんだブレーキランプの絵文字って。あーもう、キモい愛言葉!聞いてらんないよ。もう出よ出よ。
私はカフェを後にした。
それにしても合言葉か。最近物騒だし、必要かもしれないな。
——
月が綺麗ですね
川端康成かよ!
夏目漱石だよ?
うっせーな!これなんで
私が間違える構図なんだよ
ちなみに夏目漱石も
言ってないらしいよ
知ってるわ!何回同じ
やりとり繰り返すんだよ
これが合言葉って決めたでしょ
いいから早く本題話せよ
——
今日も夫婦関係は良好である。
『僕ルームシェアやってるんですよ!』
『へーホンマか!大変やろ、どんな感じなん?』
PC画面の中でお笑い芸人さんが話しはじめた。
「あ、ねえねえ、ルームシェアの話してるよ!」
台所仕事をしていたナオに話しかける。私はリビングにノートPCを持ってきて、ソファーにぐでっとしながらくつろいでいた。
「なにそれ、YouBoom?」
「これテレビ番組だよ。TValueで観てるの」
この部屋にテレビはない。でも子供の頃に見てたテレビ番組をたまたま民放配信ポータルで見つけたとき、反射的にお気に入りに登録していた。習慣には勝てない。
『いやもう一週間で同居人キライになりましたわ!』
どきっと同時に胸の奥がヒリっとする。え?なんで?
ナオとルームシェアをし始めて半年が過ぎた。一人で生活していたときより毎日が楽しいし、私にとっては良いことしかないのに。
『ウチの同居人も芸人なんですけど、散らかしっぱなしで掃除も洗濯もなんにもしないんですよ、もう頭に来て!』
う、思い当たる節がある。ナオに聞かれてないかな。
「あはは、カナデみたいなヤツだな」
「は?えええ、ど、どこがー?」
やっぱりナオもそう思ってたんだ!てことは私のことキライってこと?
「っはは!なに動揺してんの。冗談だよ」
「や、でも、よく散らかすのはホントだし、いつもナオに掃除させちゃってるし」
モヤモヤが取れない。
「ごめんごめん、そんなのお互い様でしょ。余裕があるときにやればいいって」
やばい、私めんどくさい女になってる。
『もうあいつは友達じゃないですわ!』
やめて、そんなわけない。でも…
『でもしばらく一緒に住まなアカンのやろ?』
気になったまま終わらせたくない。やっぱりいま聞かなきゃ。
「ナオは、私のこと、いまも友達だと思ってくれてる?」
「やめてよ恥ずかしい」
なら私から言う。
「私は、ナオのこと大事な友達、いや親友だと思ってるよ!」
ナオの顔が困ったような、何かをこらえているような表情になる。
「わかったよ」
ナオがカフェオレを一口すする。
「私も親友だと思ってるよ」
胸のつかえが取れていく。ナオは続けた。
「でもね、一緒に生活しているとさ、もちろん友達だったら見えなくていいところも見えてくる。そういうのをさらけ出すのって、それはもう…」
ナオは言い淀んだ。呼吸を整えている。私は黙って見守る。口を開くと
「それはもう家族って呼んでもいいんじゃないかな」
そう言ったナオの頬はほのかに赤くなっている。
「やー!嬉しい!いいの?家族でいいの?私もね、ホントはパートナーって言いたかったの!家族?ファミリー?もう一生ついて行きま〜す!」
「こいつ調子いいな!」
私も顔が熱くなるのを感じていたけど、ハイテンションでごまかした。
『あいつとはもう戦友みたいなもんですわ!』
PCの中で芸人さんが宣言した。あんまりウケてはいないようだった。