筆ペンを持つ手が震えている。A3の紙はあと一枚。これ以上失敗するわけにはいかない。軽い気持ちで引き受けたわけではない。何度も断ろうとした。でも一度引き受けたからには、やり遂げなければならない——
出勤時間にバイトが全員集められた。そこで店長から通達があった。ハロウィーンのキャンペーン開始に向けて、スタッフを強化したい。シフトを追加できる人は申し出てほしいという。さらにバイトの人員を増やすというのだ。
パン屋さんってハロウィーンにイベントやるんだ、などと考えていると、
「それからヤマノさん、キミ、書道の経験があるって履歴書に書いてあったよね?」
「ふぁ、は、はい」
みんなの前で名指しされて変な声が出る。
「バイト募集の貼り紙を書いてほしいんだ。お願いできる?」
「え、や、ちょっと自信ないです」
業務内容にそんなこと書いてなかったはず。あ、軽作業あったか。お手軽に書きやがって。
「ぜんぜん、上手くなくていいから」
「パソコンとかでも、デザインできるんじゃないですか?」
「手書きがいいのよ。温度を感じた方がいい人が集まってくるから」
私はWEBの求人から応募したけどな。ぜんぜん手書きじゃなかったけどな。
「ね、読めればいいから」
じゃあ私じゃなくていいでしょ。
とはいえ、これ以上の押し問答は他のバイトの前では憚られる。仕方なく引き受けることにした。
「A3の紙、今これしかないから。まあ6枚もあれば大丈夫でしょ」
突如私のライフは6になった。A3コピー用紙にフリーハンドで文字を書くカンタンなお仕事。書くべき内容はご丁寧にA4コピー用紙に印刷されている。
「これ貼ればいいじゃん!」と小声でツッコんだが誰にも聞かれてないよね。
最初はみんなに注目されて、まったく集中できなかった。一文字書くごとに「おお!」「いいね!」「ああキレイ!」などと囃されて、途中【時給10000円】と桁数を間違えたところでため息と笑い声が同時に起こった。
人の失敗を見られて満足したのか、聴衆は去っていった。いや、自分の仕事に戻っただけだ。
「時給一万だったらアタシもっかい面接受けるわ」だの「ヤマノちゃんがんばってー」だの言いながらプレッシャーをかけてくる。
一人になっても緊張は変わらなかった。ライフが少ないと知っていると余計に手元が狂う。業務と関係のない特技など履歴書に書くべきではなかった。
【休憩】の部分を2回続けて【体憩】と書いた時には恥ずかしくて焼き窯に飛び込みたくなった。「体」でミスしてるのをわかっているのに「憩」まで書いてしまうのは何故なのだろう。この習性に名前を付けてほしい。
気づけばあと一枚。ライフは1。ここでミスればゲームオーバー。アーサーもパンツ一丁だ(世代がバレる)
もう一度自分を奮い立たせ、筆ペンを持つ手に力を込めた——
【バイト暮集】
オワタ。いきなりの誤字。あーあ。クビだクビ。
タイミングを見計らったかのように店長がひょっこり顔を出す。
「修正テープあるよ」
〜〜〜店長!💢
あの頃と同じ、阿佐ヶ谷の路地裏にある安居酒屋。集まるのはあの頃と同じメンバー。会えばまた、話すのはあの頃の話。
「あんときレージがいきなりバンド組もうって言い出してさ。そんときもう25だぜ?」
タミオが切り出して、若い頃の話が始まった。
「まあ、さすがに遅いか」
「そんときレージなんて言ったか覚えてる?何かを始めるのに、遅すぎることはないと思います。だぜ?」
「いやいや、別にメジャーになろうとか思ってなかったし。趣味の話じゃん」
「でもあれ、なんか音楽のM-1みたいなの出るって言ってたじゃん」
「【爆音!てっぺんリーグ】な、誰が覚えてんだよ。あれ別に賞レースじゃねーわ。1年で終わった夕方のテレビ番組だわ」
ちなみにこの番組が終わったのはM-1グランプリが始まるよりも前だ。
「いいねー、タミオ、今日もツッコむねー」
「あの頃タツキチ変なバイトしてなかった?」
タツキチがニヤニヤしながら答える。
「バカ、レッキとした運送業だよ」
「なんのバイトだよ」
「えっとウーパールーパーを四国に運ぶバイト」
「絶対やばいヤツだろ」
「あと帰りにイグアナを東京に持ってくるの」
「どういう往復書簡なんだよ。だれが潤うんだよ」
タミオのツッコミが冴える。
「当時まだウーパールーパーが四国では売れたんだよ」
「近場の貿易差額主義なんなんだよ」
「東京で爬虫類はやってたし」
そんな時代あったか?
くだらない馬鹿話が繰り広げられる。それぞれのあの頃を懐かしみながら。
「オレたち、あの頃と何か変わったのかな?」
わざわざ芝居がかって言うことか?恥ずかしい。
「なんも変わってねえよ」
そう、あの頃となんも変わってない。
「そろそろ上がりますか」
「明日何時?」
「オレ昼から、お前は?」
「オレ6時から現場だよ」
「うわーキツイなぁ」
40代バイトリーダー。
「明日もここ?」
「おう、オレ4時から飲んでるわ」
「早すぎだろエリアマネージャー、仕事しろよ」
「さすがに朝までは飲めませんねぇ」
「老いてんじゃねぇか」
「ごめん、オレ明日関西だわ」
「なんで?」
「熊野古道にマングースを放つバイト」
「いいわけねーだろ!」
いまも変わらない、あの頃…。
「すごいな。吸い込まれるような星空だなぁ」
「うん」ん?
秋の夜長。長く続いた雨も今日は落ち着いて、過ごしやすい空気の中、私と彼は雲のない夜空を眺めていた。澄んだ空に数多の星が瞬いている。
「晴れて良かったなぁ」
「うん」ん?
二人で計画した週末のデート。車で県外み足を運んで一日レジャーを楽しんだ。今はこうして、丘の上のキャンプ場で、草っ原にシートを敷いて並んで寝転がっている。
「星を見てると、落ち着くなぁ」
会話、いらないなぁ。こういうとき男の人って話したいもんなのかな。
「あ、あそこ、オリオン座だよね?」
彼はざっくり虚空を指さした。
「あ、うん。そうだね」
私はもう15分も前からオリオン座を認識していた。
「星座にまつわる物語って知ってる?」
あ、この男《ひと》、なんかロマンチックなこと言おうとしてるな。めんどくさいな。
「ああ、よくギリシャ神話と紐づけて語られるよね」
嫌だなぁ。聞きたくないなぁ。
「え、あ、うん、そうそう」
今の反応からして、たぶん私の方が詳しいんだよなぁ。
「えっとその、ペルセウス座ってあるじゃん」
彼は特に夜空を指さすでもなく語り始めた。ペルセウス座がどれかは知らないんだ。
「ペルセウスって英雄でね、いろんな神話が残されてるんだけど」
今日私が運転してたし、もう疲れてるんだよなぁ。星を眺めながら寝落ちしたいなぁ。
「ある日ペルセウスは、怪物ゴルゴンを殺すように言われて…」
いやちょっと待て。
「ああもうグロいグロいグロい!物語のチョイス違うでしょ!このシチュエーションでする話じゃないでしょ!あと私もう疲れてるから星空みながらウトウトしたいの。ちょっと静かにしててくれない?」
あーやっちゃった。疲れて我慢できなくてキレちゃった。嫌われるかな。
「カナちゃん…」
まあいっか。こんな空気読めない男、嫌われてもしょうがないか。
「カナちゃん、グロいとかいう子だったんだね」
「いやどこで引いてんだよ!」
人生は空虚だ。毎日が会社と家の往復。休日は寝るだけ。動画サイトとスマホゲームに少しばかりの快感と時間を吸い取られる日々。気がつけば会社に勤めて10年が飛ぶように過ぎていた。
「え?サヤ、結構まいってる感じ?社会人つらくなってきた?」
中学生からの親友マキエとお茶をしている席でそんなことを吐露してしまった。やっぱり疲れてる。
「あんたってさ、音楽のライブとか、見に行ったことない?ライブハウスでもフェスでもいい」
「え、ないけど。でもそんなの…」
別にライブに行かなくたって、音楽は聴けるじゃん。サブスクだって入ってるし、音楽の趣味がないわけじゃない。
「あとは、カラオケとか、そう!スポーツ観戦とか」
ますますなにを言ってるのかわからない。娯楽?家じゃなくて外に出ましょうってこと?
「なに?私がインドア派すぎるって言いたいの?」
思ったより語気が強くなってしまった。
「違う違う、そうじゃなくて。ダンスだよダンス!あんたに足りないのは踊ること!」
正解が出てもやっぱり理解できなかった。なんで私この子と友達だったんだっけ。でも相談してるのは私だ。
「私たちの世代って、踊ることを学んで来なかったと思うの。ほら、今は学校の授業でもダンスって必修でしょ?昔なら盆踊りだったり、フォークダンス?だったり。生きていれば通らざるを得ない踊りがあったんだよ」
なんかアカデミックな話し方で持論を展開している。面白そう。
「でも私たちは、求めに行かなきゃ経験できなかったの。踊りを。踊ることが当たり前じゃなかったんだよ」
それに日本人は平均的に踊る時間が少なすぎるっていう統計も出てるらしいという分析まで出してきた。
私は夏祭りの盆踊りもなにが楽しいんだろって思いながら眺めてたし、キャンプファイヤーの周りを手を繋いで回るのとかもドラマでは見るけど私の世代ではやったことない。ましてや体育の授業でやったことも。
踊るのが人生に必要だなんて思ったことなかった。
「で、踊るのって必要なことなの?」
「んー。ダンスをすると幸せになる」
雑だなぁ。
「少なくともあんたのその人生の空虚?それがどっかに吹き飛ぶ」
それって現実逃避じゃ?あ、でも、この悩みを最初に話したの私だった。
「でも踊るのって…その…怖いし」
我ながら臆病すぎる。語彙力小学生か。
「なにもいきなりクラブに飛び込まなくたっていいの。家で好きな曲に合わせて手足を動かすでもいいし、ひとりカラオケで振り付きで歌うのもいい」
ああ、なるほど。妙に納得してしまった。
「と、いうわけで…」
え?
「今から私と踊らない?」
「え、ちょっと、どこに?」
言いながら強引に席を立たせてくる。
「カラオケカラオケ♪ まだお昼だから安いから!」
「いや私、歌うのも…」
苦手だ。カラオケなんて歌ったこともない。
「私がサヤの知ってる曲歌うから!それに合わせて適当に踊ってみて!それでじゅうぶん!」
流されるのは好きじゃない。けど、私のことを想ってくれてるのはわかる。こういう友達がいて、良かったな。
人との出会いが人生を変えることがある。それは人ではなく物かもしれない。人生を変える何かと巡り会えたら、それだけで人は生まれた意味があるのかもしれない。人は他とのつながりの中で生きているのだから。
「これ、なんの絵?」
ダイニングに飾っている小さな絵を見て、友人が聞いてきた。誰の絵、ではなく何の絵、と聞いてくる時点で聞いてもわからないような無名の画家の絵だということはわかっているようだ。その通りだけど。
「ギャグの絵、かな」
聞かれた通りに答える。友人はとりあえず聞いただけで、興味を失ったらしく、もうテレビのリモコンを操作している。
「ふーん、え?ギャグって?どういう意味?」
予想外の答えが返ってきて驚いたような反応だ。聞かれた通りに答えたのに。
「じゃあ、はじめから説明するよ」
数年前、知り合いが展覧会に絵を出展するというので見に行った。銀座の画廊だったが、まだ美術大学を出たばかりの若手芸術家の作品を集めた展覧会だった。知り合いがたまたま芸術家になっただけで、自分はこの世界に詳しくなかったので、キョロキョロしながら所在なく会場を歩き回った。
たくさんの作品が並んでいるから、作者も居たり居なかったりだ。私の知り合いはその日、在廊していた(画廊にいることを在廊というらしい)。よく見ると作品の横に作者名とタイトルの入ったプレートがあって、そこに値段も書いてある。ところどころ売約済の札が貼ってある。オークションではなく先着買上方式のようだ。アートの世界ってこういうものなんだなぐらいに思っていた。作品を売っていることも初めて知ったし、自分が所有するなんて思ってもいなかった。
そして、この作品に巡り合った。
人が横を向いて両腕を突き出している。体勢はエビのようにお尻を突き出した状態だ。そして顔は笑っている。プレートを見ると作品名は「ペルモッチ」と書かれている。
「気になりますか?」
後ろから話しかけられ、振り向くとカラフルな色の服を着た、いかにも芸術家然とした出で立ちの人が立っていた。
「これの作者です」
私は聞いた。
「これはなんの絵ですか?」
絵を見て、作品名を見てもわからなかったから、こう聞くしかなかった。
「ええ、これは、ギャグの絵です」
私が何も反応もできずにいると、作者は続けた。
「実は、友人がお笑い芸人を始めまして、彼の持ちギャグなんです。意味わかんないんですけど、芸術って意味わかんないじゃないですか。だから描きました」
そうか、芸術って意味わかんないものなのか。ならこの絵は紛れもなく芸術だ。だったら、
「これください。これ、部屋に飾ります」
そう言うと作者は手を叩いて喜んだ。「ペルモッチ」のプレートには売約済の札が貼られた。
「いや、ぜんぜん意味わかんない。聞いてもぜんぜん意味わかんない」
笑いながら、今の話のどこにこの絵を買う要素があったんだと馬鹿にしたようにツッコんでいる。
「じゃあ、意味わかんないついでにもうひとつ。芸術って、いきなり価値が上がるらしいよ」
「そんな上手い話、あるわけないだろ」
そう、そんな上手い話はあるわけがない。そんな芸術に巡り会えたら、私も大金持ちになれるのかな。
「ペルモッチ!」
え?
「ペルモッチ!」
テレビの中から声がしている。見るとヘンテコな衣装を着たお笑い芸人が、この絵と全く同じ態勢で「ペルモッチ!」と叫んでいた。
私は友人と顔を見合わせて、大笑いした。